鎌倉検定の最初の問題は、何故か源頼家だった。
2007年(平成19年)から始まった鎌倉検定。 その第1問目は、源頼朝ではなく、子の頼家の問題でした。 1203年(建仁3)、病に倒れ、将軍職を退き、最後は幽閉先の伊豆修禅寺で暗殺された人は誰か。 1 源頼義 2 源義朝 3 源実朝 4 源頼家 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1203年(建仁3年)8月27日、二代将軍 源頼家 の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子 一幡 に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの 実朝 )に譲ることが発表されます。 これに反発したのは 比企能員 でした。 頼家の乳母夫であり、一幡の外祖父でもあった 比企能員 は、娘の若狭局(頼家の側室)を通じて頼家に「 北条時政 を追討すべきだ」と伝えます。 それを聞いた頼家は、9月2日、 比企能員 を呼んで、北条氏追討の許可を与えたのだといいます。 その密議を障子を隔てて聞いていたのが 北条政子 。 政子は、その事を 北条時政 に通報。 これを受けた時政は 大江広元 の支持をとりつけ、先手をうって能員を暗殺したのだといいます。 能員を暗殺したのは 天野遠景 と 仁田忠常 。 一方で、政子の命を受けた 北条義時 らが比企邸を攻め、比企一族を滅亡させました。 比企一族の墓 (妙本寺) 9月5日、危篤状態から奇跡的に快復して事件を知った 頼家 は、 和田義盛 と 仁田忠常 に 時政 討伐を命じますが失敗に終わり、9月7日、病気と政治不安を理由に出家。 9月29日、 頼家 は伊豆国 修禅寺 へ流され、翌1204年(元久元年)7月18日に暗殺されました。 源頼家の墓 (修禅寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ