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2019日向薬師の麓に咲く彼岸花~9月中旬頃から~

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日向薬師 麓の里山に咲く ヒガンバナ 。 例年の見頃は9月中旬から下旬。 ★臨時観光案内所 日向地区と洗水地区に臨時観光案内所が設置されます。 ○設置日 9月21日(土)・22日(日祝)・23日(月祝) 28日(土)・29日(日) ※ 開花が遅れているため、14日~16日の設置は中止され、28日(土)・29日(日)に変更されています。 ○設置時間 9:30~15:00 ○開花状況 伊勢原市観光協会 のページでご確認下さい。 ○交通 小田急線「伊勢原駅」から『バス』日向薬師行き(北口3番乗場) 終点又は「洗水」バス停下車。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 日向薬師 https://www.yoritomo-japan.com/isehara/hinata/hinata-yakusi.htm 日向薬師 は、薬師如来の霊場として信仰されてきた古刹。 源頼朝 や 北条政子 も参詣しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大山・日向MAP ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉のヒガンバナ

中世を代表する建築様式「大仏様」と「禅宗様」~鎌倉検定~

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中世禅宗様式仏殿の典型として鎌倉の建造物で唯一国宝に指定されている円覚寺舎利殿は、室町時代に鎌倉尼五山の第一位の寺院の仏殿を移築してつくられたものとされるが、この寺院は何か。 (第2回鎌倉検定試験2級) (第5回鎌倉検定試験2級) (第9回鎌倉検定試験2級) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 円覚寺 の開山塔 正続院 の中心的な建物の 舎利殿 は、西御門にあった尼寺 太平寺 の仏殿だったもの。 室町時代中期頃の建築物と推定されています。 舎利殿 鎌倉時代には宋の建築様式が輸入されました。 その代表的なものが東大寺南大門にみられる「大仏様」と、鎌倉時代後期から禅宗寺院に採用された「禅宗様」です。 東大寺南大門 東大寺 の 南大門 は、1180年(治承4年)の 平重衡 の 南都焼討 後に再建された建物。 重源 が宋から伝えた建築様式「大仏様」が採用されています。 東大寺 の 南大門 と 円覚寺 の 舎利殿 は、中世を代表する建築様式で建てられたもので、いずれも国宝に指定されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大仏様、禅宗様が伝えられる以前の建築様式は「和様」と呼ばれます。 2013年(平成25年)に国の重要文化財に指定された 英勝寺 の建築物5棟(仏殿、山門、鐘楼、祠堂、祠堂門)は、禅宗様と和様を自由に組合せた江戸時代前期らしい意匠を持ち、屋根の弛も軒の反りもつけない直線的な屋根形状で統一されている堂宇群です。 仏殿 山門 鐘楼 祠堂 祠堂門 (唐門) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

源頼朝を匿った箱根権現の行実

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箱根神社 は、かつて箱根権現と称されていました。 河内源氏 との関係は深く、前九年の役に出陣した 源頼義 、 源義家 が参拝し、 源為義 と 源義朝 は「東国輩」に対する動員催促権を与えたのだといいます。 源義経 奉納という太刀 「薄緑丸」 (うすみどりまる)も残されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い に敗れた 源頼朝 は箱根権現の別当・行実とその弟・永実を頼ります。 『吾妻鏡』によれば、行実は父は良尋。 良尋は、 源為義 や 源義朝 と好を通じていたそうです。 京都にいた行実が父の跡を継いで箱根権現の別当に就任する際、為義は「東国の家人の召集権」を、義朝は「駿河、伊豆の家人の召集権」を行実に与えたことが記されています。 伊豆配流の身だった源頼朝も箱根権現を崇敬し、行実も頼朝に気をかけていたようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ そういった関係から、箱根権現に頼った 源頼朝 でしたが・・・ 翌日、行実の弟・良暹が僧兵を集めて頼朝を襲おうとしていることが判明。 良暹は、数日前に頼朝が討ち取った 山木兼隆 の祈祷師をしていたそうです。 行実は「良暹を恐れることはないが、 大庭景親 がこれを聞きつけて攻めてきたらいけないので逃げた方がいい」と進言。 頼朝は、 土肥實平 、永実とともに土肥郷を目指します。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 参考までに・・・ 北条時政 は、山伏の道を通って甲斐国へ向かったそうなのですが・・・ ただ、頼朝が落ち延びられるかどうか分からないのに、甲斐源氏の応援を頼んでもどうなのかと考え、頼朝の後を追ったのだそうです。 前日、嫡男の 宗時 が討死したときも甲斐国へ向かったはずの時政でしたが・・・。 『吾妻鏡』の記録では時政が何を考えていたのか、ちょっとわかりません。 源頼朝は8月28日に真鶴から安房国へ向けて船出しますが、時政は頼朝より先に安房国へ渡っているようです。 箱根神社 https://www.yoritomo-japan.com/hakonegongen.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ド

栄西と茶~鎌倉検定~

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壽福寺の開山で、日本に初めて臨済禅を伝えた(  栄西  )は、宋から帰国の折りに茶の種(苗)を持ち帰ったことでも知られる。茶の効用を記し、鎌倉幕府三代将軍源実朝に献上した著書『(  喫茶養生記  )』(国重文)は、禅宗と並び、喫茶の儀礼が広まっていく契機となった。 (第10回鎌倉検定試験1級) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 栄西 は、我が国臨済宗の開祖。 二度にわたって中国の宋で学び、臨済禅を修めました。 それまで上流階級に限られていた喫茶の習慣を一般社会に伝えたのもの栄西です。 栄西は宋から帰国後、京都で禅を広めようとしますが、 比叡山 からの迫害に遭い、1199年(正治元年)頃、鎌倉に下ってきました。 木造栄西禅師坐像 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~茶と栄西と宇治茶の始まり~ 栄西は、宋から茶の種を持ち帰り、それを筑前の霊仙寺に蒔いて茶を栽培しました。 その種がいつ持ち帰られたものなのかは判りませんが、おそらく2回目の渡宋から帰国した1191年(建久2年)のことと考えられているようです。 霊仙寺に蒔かれ茶は、「岩上茶」の起こりとなったと伝えられています。 また、栄西は5粒の種を栂尾の 高山寺 の明恵に譲っています。 明恵は、それを高山寺の境内に蒔き、宇治に移植して茶の栽培を行ったといいます。 これが「宇治茶」の起こりと伝えられています。 高山寺 栂尾の 高山寺 は、華厳宗の僧・明恵が中興した寺(世界文化遺産)。 明恵は、 栄西 からもらった茶の種を山内に植えました。 そして、茶を育成します。 日本最古の茶園 (高山寺) 栂尾で育成された茶の木は、宇治へ移植されます。 萬福寺 宇治市にある 萬福寺 は、禅宗の一つ黄檗宗の大本山。 中国明朝風の伽藍が並ぶ寺です。 山門 前には「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」という句碑があります。 菊舎句碑 (萬福寺) そして総門の前にあるのが「駒蹄影園(こまのあしかげえん)址」の碑。 駒蹄影園 址 高山寺 の明恵は、この辺りに栂尾で育てた茶を移植させたといいます。 伝説による、明恵から茶の木を与えられた里人でしたが、それをどのような間隔で植えたらよいのかわかりません。 すると、明恵が畑に馬を乗り入れ、馬の蹄の跡に植えるよ