投稿

1月 30, 2011の投稿を表示しています

蛇苦止明神とは・・・~妙本寺の鎮守~

イメージ
1203年(建仁2年)9月2日、 北条時政 は、二代将軍 源頼家 の外戚としてその勢いを増していた比企能員を自邸に招き暗殺しました。 そして、 北条義時 らは、比企邸を襲い、比企氏を滅亡させました( 比企氏の乱 )。 比企一族の墓 妙本寺 の 祖師堂 横に建てられている比企一族の墓です。 妙本寺 は比企邸の跡地に建てられています。 建てたのは比企能員の末子能本といわれています。 源頼家卿嫡男一幡君廟所 二代将軍 源頼家 の嫡子一幡(6歳)は、 比企氏の乱 の際に焼け死んだそうです。 ここには、焼け跡から発見された一幡の着衣の袖が葬られているといいます。 蛇苦止堂 そして、この建物が 蛇苦止明神 を祀る御堂です。 蛇苦止明神 とは、比企能員の娘で、 源頼家 の嫡子一幡の母親のことだといわれています。 この女性の名については、若狭局と説明するものと讃岐局と説明するものとがあります。 若狭局と讃岐局というのは、同一人物なのでしょうか?、それとも別人なのでしょうか? どちらが正解ということは別にして、 比企氏の乱 から約60年が経った1260年(文応元年)、北条政村の娘が何か取り憑かれてしまいます。 この事件につきましては『吾妻鏡』にも記されていまして、原因は比企能員の娘の祟りだったと伝えているようです。 その怨霊を成仏させるために蛇苦止明神として祀ったのだということです。 (参考: 物の怪に祟られた北条政村の娘~妙本寺:蛇苦止堂~ ) 讃岐局の墓 鎌倉市天然記念物のイチョウの木の下に建てられています。 讃岐局蛇苦止霊之墓 インターネットで調べていましたら、「若狭局がのちに讃岐局と呼ばれた」とする説もありました。 妙本寺 で頂戴した「妙本寺第27号」の中の諸堂紹介では、一幡の母親も、蛇苦止明神も、讃岐局として説明しています。 蛇苦止ノ井 若狭局(または讃岐局)が身を投げたという井戸です。 蛇形井とも呼ばれているようですが、身を投げたのは池だという説もあるようです。 この井戸、大町の 六方井 に繋がっているという伝説もあります。 六方井

鎌倉:荏柄天神社の梅~古代青軸~

イメージ
荏柄天神社 の拝殿前の白梅は、花の中心が青みがかっているもので 「古代青軸」 と呼ばれています。 祭神の菅原道真は、5歳のときに梅の花を見て 「うつくしや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」 と詠んだそうです。 道真は、宇田天皇の信任を受けて活躍しましたが、 醍醐天皇の代になると、無実の罪で太宰府(福岡県)に左遷されてしまいます。 住み慣れた京の邸宅を発つときに、 「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」 と詠んだといいます。 福岡県の太宰府天満宮には、「飛梅」というご神木があるそうです。 左遷された道真を慕って京の邸宅から一夜にして飛んできた梅なのだそうです。 こんな伝説から、「天神さまといえば梅」なのでしょう。 ご神紋には梅鉢が使用されています。 拝殿の右前には 寒紅梅 も咲いています。 http://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_668.html 絵筆塚前に咲いていた枝垂れ梅 門前ではミツマタが咲き始めていました。 鎌倉:梅の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/ume-kamakura.htm 古代青軸 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kodai-aojiku.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

地ぱんショップ~江ノ電~

イメージ
先日、江ノ電鎌倉駅の地ぱんショップで「玄米チーズあんぱん」を購入しました。 暖めてくれた「ぱん」をベンチに座って食べましたが、 この「ぱん」は、かなりおいしいと思います。 地ぱんショップで売っているのは、国産の小麦粉や玄米などで作ったこだわりの素材で焼き上げた「地ぱん」です。 藤沢駅の「江ノ電の珈琲屋さん」でも食べることができます。 「地ぱんマン」です。 アンパンマンの作者・やなせたかし先生が、 新たに生み出したキャラクターなのだそうです。 地ぱんとは・・・ ( 銀嶺食品工業株式会社のページ) http://www.ginray.jp/zipan.html 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

佐助稲荷神社の霊験~源十朗の大根物語~

イメージ
源十郎弥十郎事 (げんじゅうろうやじゅうろうのこと) 江戸時代の紀行文『金兼藁』に収録されている佐助稲荷の霊験譚です。 ~狐を助けた源十朗~ 昔、源十朗という魚商人がいました。 魚を荷なって由比ヶ浜を通り抜けようとすると、 犬が狐を追っかけて走ってきました。 狐は源十朗が荷なっていた籠の中に逃げ込みます。 哀れに思った源十朗は犬を追い払い狐を助けてあげました。 ~夢のお告げ!~ その夜、夢の中に狐が現れます。 そして、 「今日は助かりました。助けてもらった恩に報いるために参りました。 源十朗殿 今の魚商人は止めて、佐助ヶ谷で大根を作れば、大きな富が得られます。」 と告げたといいます。 ~源十朗 大根作りを始める。~ 何とも信じ難いことでしたが、 源十朗は、狐の教えのとおり、 佐助ヶ谷に土地を借りて大根作りを始めます。 ~鎌倉に流行った疫病と夢のお告げ。~ その冬、鎌倉に疫病が流行って、 死者が多く出ました。 身分の高い人も低い人も嘆いていると、 ある人の夢の中に神が現れて、 「源十朗の作った大根を買って食べれば病が治る」と告げたといいます。 ~源十朗、大根が売れて大金持ちになる。~ このお告げが鎌倉中に広まります。 源十朗の大根を買った人の病も治ります。 大根も減って行くにしたがって高値になっていきました。 そして源十朗は大金持ちになったそうで。 ~稲荷明神の社を建てる。~ 狐の教えによって富を得た源十朗は、 稲荷明神の社を建てました。 それが現在の佐助稲荷神社だといいます。 佐助稲荷神社 https://www.yoritomo-japan.com/page137sasukeinari.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

霊狐泉~田畑の水源:佐助稲荷神社~

イメージ
昔から麓の田畑を潤してきた水だといいます。 佐助稲荷神社 https://www.yoritomo-japan.com/page137sasukeinari.htm

佐助稲荷神社の秘仏~縁結十一面観音~

イメージ
佐助稲荷神社 下社の横にある御堂には、縁結びで知られるの観音さまが安置されています。 縁結十一面観世音 江戸時代に足柄郡の尼寺から移されたといわれています。 良縁に恵まれずに仏門にいった美しい姫君(赤松幸運)が、 この世の若い男女の良縁を祈って彫り上げた十一面観音だと伝えられています。 5月の観音様の縁日(18日)にのみ開帳される秘仏です。 佐助稲荷神社 https://www.yoritomo-japan.com/page137sasukeinari.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

源頼朝を助けた隠里の稲荷大明神(佐助ヶ谷)

イメージ
源頼朝 が、まだ伊豆国の 蛭ヶ小島 に流されている頃、病に臥していた 頼朝 の夢枕に白髯の老人が現れます。 そして、 「汝は平氏を討つ天命を負うものである。早急に挙兵して天下を統一すべし。」 と告げ、 頼朝 の問いかけには、 「鎌倉隠里(かくれさと)の稲荷大明神」 と名乗って姿を消したといいます。 佐助稲荷 源頼朝 は、幼少期に右兵衛権佐に任ぜられていたため、 長いあいだ「佐殿」(すけどの)と呼ばれていました。 「佐助稲荷」という名には、 その佐殿を助すけた稲荷大明神という意味があると伝えられています。 https://www.yoritomo-japan.com/page137sasukeinari.htm 佐助稲荷神社本殿 夢のお告げによって挙兵した 源頼朝 は、それから50日ほどで鎌倉入りを果たします。 平氏を討滅させ、大倉の御所に武家政権の府を誕生させた 頼朝 は、西方の霊地に祠が発見されると、 畠山重忠 に命じて社を造らせました。 (創建年ははっきりしませんが、建久年間(1190~99)のことといわれています。) それが、現在の 佐助稲荷神社 だと伝えられています。 境内にはたくさんの石祠が並んでいます。 古い書籍には 佐助稲荷神社 本殿の上に金狐祠と呼ばれるものがあったのだといいます。 この祠の先は 葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース 。 佐助稲荷神社 https://www.yoritomo-japan.com/page137sasukeinari.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

小動岬

イメージ
小動岬(こゆるぎみさき)は、 七里ヶ浜 と 腰越の浜 を分ける岩塊です。「小動崎」とか「小動の鼻」などと呼ばれてきました。 丘の上にある 小動神社 が「八王子社」と呼ばれていたことから「八王子山」と呼ばれていたこともあるようです。 江ノ電「腰越駅」 から、漁村の雰囲気を残した街を抜けると 七里ヶ浜 の西の端です。 この辺りには、 七里ヶ浜 から腰越に入る 「十間坂」 という古道もありました。 新田義貞 の鎌倉攻めの際の古戦場の一つでもあります。 小動神社の参道 国道134号線沿いからこの参道を上がると腰越の鎮守 小動神社 です。 小動神社 https://www.yoritomo-japan.com/page139koyurugi.htm 小動岬の丘の上に建てられた神社。 文治年間(1185~90)、 源頼朝 の挙兵に功のあった佐々木盛綱が、 江の島 詣の際に立ち寄り、「小動の松」と呼ばれる美しい松に魅了され、父祖の領地である近江国から、八王子社を勧請したのがはじまりと伝えられています。 ~佐々木氏~ 佐々木盛綱は、近江国の宇多源氏の棟梁佐々木秀義の三男です。 秀義は 平治の乱 で 源義朝 に味方して敗れ、奥州へ逃れる途中、渋谷荘の 渋谷重国 に匿われ、以後、20年余りを渋谷荘で過ごしたといいます。 秀義の子、定綱、経高、盛綱、高綱は、 源頼朝 が伊豆国の 蛭ヶ小島 に流されていたときから、 頼朝 に仕えていました。 参考:早川城址 https://www.yoritomo-japan.com/hayakawa-jyosi.htm 小動岬からの江の島 南端にある展望台からは、腰越漁港と 江の島 を見渡せます。 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm 『新編鎌倉志』によると、 風もないのに揺れる「小動の松」(こゆるぎのまつ)と呼ばれる美しい松があって、それにちなんで付けられたのが「小動」という地名だといいます。 また、『新編相模国風土記稿』では、 佐々木盛綱が、揺れる松を見て「小動の松」と名づけたことに由来すると伝えています。 七里ヶ浜 七里ヶ浜 を鎌倉へ向かうと 稲村