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8月 30, 2020の投稿を表示しています

源義朝が暗殺された湯殿がある法山寺

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  法山寺は臨済宗天龍寺派の寺院。 山号は曇華山。 本尊は御湯殿薬師如来 725年頃、この地を訪れた行基が、山上にたくさんの優曇華が咲いているのをみて衆生済度を願い、薬師如来を彫りあげ、一堂を建立したのが法山寺の始まり。 ※優曇華は三千年に一度咲くのだという・・・ 鎮守社 1159年(平治元年)、 平治の乱 で 平清盛 に敗れた 源義朝 は、京を脱出し尾張国の長田忠致・景致父子のところに身を寄せたのだが・・・ 長田父子の裏切りに遭って法山寺の湯殿で暗殺された。 📎 源義朝を暗殺した長田忠致 御湯殿跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北条泰時創建~藤沢片瀬:泉蔵寺~

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  高野山真言宗の寺院。 鎌倉幕府三代執権の 北条泰時 が、1226年(嘉禄2年)に 和田合戦 や 承久の乱 の戦死者を供養するため創建した寺と伝えられています。 本尊は不動明王。 1333年(元弘3年)の新田義貞の鎌倉攻めの兵火に遭い、1506年(永正3年)に現在地へ移転再建されたといわれています。 本堂には、一遍上人ゆかりの 片瀬浜地蔵堂 の本尊だった地蔵菩薩像が祀られています。  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉権五郎景政を祀っていたという湯河原町の五郎神社

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  五郎神社は、 石橋山の戦い に敗れて土肥郷に逃れた源頼朝が陣を張ったという湯河原町鍛冶屋に鎮座する社。 元亀年間の創建と伝えられる。 祭神の金山彦尊(かなやまひこのみこと)は、鍛冶の神。 鎮座する鍛冶屋という地名は、鍛冶職が住んだことに由来しているといわれる。 1911年(明治44年)、須賀神社を合祀(祭神:面足尊(おもだるのみこと))。 江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』によると、五郎神社の祭神は 鎌倉権五郎景政 。 景政は鍛冶の神だったという説が・・・ 鎌倉で活躍した 刀工正宗 も関係しているという説も・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

丸山稲荷社~鶴岡八幡宮~

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  鶴岡八幡宮 の末社、 丸山稲荷社 は、 鶴岡八幡宮 が建てられる前からあったという社。 本殿は、 鶴岡八幡宮 境内にある建造物の中では最も古く、国の重要文化財に指定されています。 鶴岡八幡宮 の上宮西側の小高い丘(丸山)の上にあります。  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

善光寺縁起絵巻と松平頼重と高松城

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  英勝寺 に伝えられる「善光寺縁起絵巻」は、釈迦の前世から 信濃善光寺 の建立までが描かれたもの。  善光寺縁起の諸本の中でも巻物形式というのは唯一なのだとか。 「鎌倉東光山御宝物帳」には、高松藩初代藩主・松平頼重が「善光寺阿弥陀縁起」を奉納したという記述があって、「善光寺縁起絵巻」と同一のものと考えられているようです。 善光寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 松平頼重は、水戸藩初代藩主・徳川頼房の長子。 母は久昌院。 久昌院が懐妊すると、頼房は尾張徳川家・紀州徳川家に男子がいなかったのに遠慮し、堕胎を命じたそうです。 堕胎せずに済んだのは 英勝寺 を建立した英勝院の助けがあったからだと伝えられています。 1639年(寛永16年)に常陸下館藩主となり、1642(寛永19年)5月には讃岐高松藩主となっています。 高松城跡 高松城 は、1587年(天正15年)に生駒親正によって築かれた海城。   1639年(寛永16年)に起こった生駒騒動により、四代高俊が出羽国矢島藩に転封となると、高松藩は幕府直轄となり、1642年(寛永19年)、松平頼重が入封。  現在見られる遺構は、頼重によって改修されたもの。 二代藩主となったのは、頼重の弟で水戸藩二代徳川光圀の子頼常。 頼常は頼重の養子となって家督を継いだ。 参考までに、頼重の子綱方と綱條は光圀の養子となり、綱方が家督を継ぐ前に亡くなったことから、綱條が水戸藩の家督を継いでいる。    1869年(明治2年)廃城。   鐘楼 鐘楼の鐘(「報時鐘」)は、1652年(承応2年)、頼重が城下の人々に時を知らせるために鋳造させたもの。 「玉藻城」とも呼ばれた高松城跡は、玉藻公園として整備されている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

江ノ電の鎌倉駅・鎌倉駅西口広場・極楽寺駅

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  江ノ電鎌倉駅 リニューアルされた駅のコンコースには、鎌倉彫の作品が展示されています。 鎌倉駅西口の広場も整備されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 極楽寺駅 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 藤沢駅