英勝寺 に伝えられる「善光寺縁起絵巻」は、釈迦の前世から 信濃善光寺 の建立までが描かれたもの。 善光寺縁起の諸本の中でも巻物形式というのは唯一なのだとか。 「鎌倉東光山御宝物帳」には、高松藩初代藩主・松平頼重が「善光寺阿弥陀縁起」を奉納したという記述があって、「善光寺縁起絵巻」と同一のものと考えられているようです。 善光寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 松平頼重は、水戸藩初代藩主・徳川頼房の長子。 母は久昌院。 久昌院が懐妊すると、頼房は尾張徳川家・紀州徳川家に男子がいなかったのに遠慮し、堕胎を命じたそうです。 堕胎せずに済んだのは 英勝寺 を建立した英勝院の助けがあったからだと伝えられています。 1639年(寛永16年)に常陸下館藩主となり、1642(寛永19年)5月には讃岐高松藩主となっています。 高松城跡 高松城 は、1587年(天正15年)に生駒親正によって築かれた海城。 1639年(寛永16年)に起こった生駒騒動により、四代高俊が出羽国矢島藩に転封となると、高松藩は幕府直轄となり、1642年(寛永19年)、松平頼重が入封。 現在見られる遺構は、頼重によって改修されたもの。 二代藩主となったのは、頼重の弟で水戸藩二代徳川光圀の子頼常。 頼常は頼重の養子となって家督を継いだ。 参考までに、頼重の子綱方と綱條は光圀の養子となり、綱方が家督を継ぐ前に亡くなったことから、綱條が水戸藩の家督を継いでいる。 1869年(明治2年)廃城。 鐘楼 鐘楼の鐘(「報時鐘」)は、1652年(承応2年)、頼重が城下の人々に時を知らせるために鋳造させたもの。 「玉藻城」とも呼ばれた高松城跡は、玉藻公園として整備されている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆