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以仁王の令旨発布から源頼朝が挙兵するまで。

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『吾妻鏡』が伝える 源頼朝 が挙兵するまでの流れは以下のとおり。 4月9日、 源頼政 が息子仲綱とともに 三条高倉 の以仁王のもとへ行き、諸国源氏を催して平氏を討滅するための 令旨 を賜わります。 高倉宮跡碑 4月27日、伊豆国の 北条館 に 令旨 が到達。 5月19日、自らも挙兵した以仁王が 園城寺 (三井寺)に入ります。 その後、南都の寺院勢力を味方に付けようとして、5月26日、 源頼政 とともに南都へ向かった以仁王でしたが、宇治 平等院 での戦いに敗れて討死。 園城寺(三井寺) (滋賀大津) 源頼政の墓 (平等院塔頭・最勝院) 6月19日、平氏が全国の源氏追討を計画していることが 三善康信 の使者によって報告され、「奥州へ逃れるように」と伝えられました。 (※ 三善康信 は、頼朝の乳母の妹の子といわれ、伊豆に流された頼朝に、月に三度、京の情報を届けていたのだと伝えられています。) 6月24日、先手を打って平氏を討滅することを決意した頼朝は、源氏累代の家人を招集するため 安達盛長 と中原光家を派遣。 6月27日、大番役で京都にいた 三浦義澄 と千葉胤頼が、その帰路、 北条館 を訪問。 何が語られたのかは不明ですが、おそらく挙兵の事が話されたのかと・・・ (※三浦義澄は 三浦義明 の嫡男。千葉胤頼は 千葉常胤 の六男。) 7月10日、 安達盛長 が「相模国には従う者は多くいますが、 波多野義常 と 山内経俊 は、呼びかけに応ずるどころか、暴言を吐く始末です」と報告。 8月2日、平等院の戦いに出陣していた 大庭景親 をはじめとする平氏方の武将が東国に帰ってきました。 8月4日、最初に伊豆国の目代 山木兼隆 を攻めることに決定。 北条時政 を呼んで 山木兼隆 を討つための軍略を練ります。 この日以前に藤原邦通を密偵として 山木館 に送り込んでいた頼朝は、邦通に館図や地図を作らせていました。 そして、この日、邦通が作成した館図と館付近の地図が届けられました。 その出来映えは、まるで現地にいるかのようなものだったといいます。 8月6日、挙兵の日を8月17日と決定。 8月11日、相模国渋谷荘の佐々木秀義が嫡男の 定綱 を頼朝のもとへ遣わし、 大庭景親 に頼朝討伐

伊豆国に流されていた源頼朝と文覚の伝説~『平家物語』~

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『平家物語』によると・・・ 源頼朝 は、1159年(平治元年)12月に父 義朝 が起こした謀反( 平治の乱 )によって死罪となるはずでしたが、 平清盛 の継母 池禅尼 の懇願により、1160年(永暦元年)3月20日に 伊豆国 の 蛭ヶ小島 に流罪となりました。 伊豆国で約20年を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、 源氏再興の挙兵 をします。 それは、高尾(京都)の 文覚上人 に勧められたからなのだそうです。 蛭ヶ小島 (伊豆の国市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 文覚 が修行のため住んでいたという高尾には称徳天皇の時代に建立された 神護寺 という寺がありましたが、長い間修繕されていなかったため荒廃し、住職もいない状況だったのだといいます。 この 神護寺 を再興させようと願った 文覚 は、勧進帳を持って布施をする人を求めて歩き回っていたそうです。 神護寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ある時、 後白河法皇 の院御所 法住寺殿 に参り、寄進を奏上することにします。 後白河法皇 は管弦と歌の催しの最中でしたので奏聞にも及びませんでしたが、荒法師だった文覚は 法住寺殿 の中庭に入って大音声を上げて勧進帳を読み上げ、寄進を強要したのだといいます。 そのため、法皇の怒りに遭い、伊豆国に流されることとなったのだそうです。 三十三間堂 三十三間堂 は、 後白河法皇 が 平清盛 に命じて創建した蓮華王院の本堂。 後白河法皇 の院御所 法住寺殿 の一画に建てられました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 文覚 が流されたのは、 源頼朝 のいる 蛭ヶ小島 に近い奈古屋(奈古谷)でした。 日頃、頼朝の許を訪ねて話しをしていた文覚は、ある時、謀反を起こして平家に代わって日本国を従えるよう勧めます。 頼朝が「 池禅尼 に命を助けられた身であるから、その恩に報いるために、毎日法華経を唱えるほかは、何もしたいとは思わない」と答えると、 文覚は「時が巡ってきているのに行動を起こさなければ、かえって災いを受ける」と言って懐より白い布で包んだ髑髏を一つ取り出しました。 それは、 平治の乱 後、 尾張国野間 で家臣の裏切りに遭い暗殺された頼朝の父 義朝 のものでした。 その後、文覚は都へ上り、院宣を賜って戻ってきたのだとか・・

満開の菜の花~二宮町:吾妻山公園~2022/01/20

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吾妻山公園の満開の菜の花。 残念ながら富士山には雲がかかってしまいましたが・・・ 恒例のイベント「菜の花ウォッチング」が開催されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源氏VS源氏~敗れた木曽義仲~

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義仲産湯の清水 (埼玉県嵐山町) 木曽義仲は 源義賢 の次男。 幼名は駒王丸。 1154年(久寿元年)、武蔵国の大蔵館で誕生したと考えられ、埼玉県嵐山町の 鎌形八幡神社 境内に湧き出す清水は、義仲の産湯に使用されたと伝えられています。 誕生の翌年、父の義賢が 源義平 に討たれると、駒王丸は畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国木曽へ逃れ、乳母夫の中原兼遠のもとで育てられます。 1180年(治承4年)、 源頼朝 が挙兵すると義仲も挙兵。 1183年(寿永2年)3月には、頼朝と対立しますが嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出して和睦。 その年の5月には、倶利伽羅峠の夜戦で平家軍を潰滅させ、7月には平家一門を都落ちさせて入京します。 倶利伽羅峠の戦い しかし、 後白河法皇 と対立し、法皇は鎌倉の頼朝を頼ります。 翌1184年(寿永3年)、頼朝は、義仲追討のため 源範頼 と 源義経 を派遣し、正月20日、範頼が 瀬田 から義経が宇治から京の義仲を攻めます。 瀬田の唐橋 (大津市) 宇治川先陣碑 (宇治市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 範頼 と 義経 に攻められた義仲は、わずかな兵を連れて京を脱出しますが、近江国粟津で討たれました。 木曽義仲の墓 (大津市・義仲寺) 義仲寺 義仲寺 は、義仲の愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられています。 木曽義仲の首塚 (京都:八坂の塔) 義仲の首は六条河原に晒された後、家臣によって葬られたのだと伝えられています。 八坂の塔 には義仲の 首塚 があります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉の頼朝は、義仲を討つと、人質として鎌倉にいた義仲の嫡子・義高も殺害します。 木曽塚 (鎌倉・常楽寺) 常楽寺 裏山にある 木曽塚 は木曽義高の墓と伝えられています。 清水八幡宮 (狭山市) 清水八幡宮 は、義高終焉の地に建てられた社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ