投稿

1月 23, 2011の投稿を表示しています

永福寺跡から天園~獅子舞の谷を散策~

イメージ
永福寺跡碑 二階堂大路のテニスコート横にある石碑です。 永福寺は、1192年(建久3年)、源頼朝が創建した壮大な寺院でした。 永福寺跡: https://www.yoritomo-japan.com/page042yofukuji.htm 永福寺跡の散策: http://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_29.html 通玄橋 この橋を渡ると 瑞泉寺 ですが、この橋は渡らず、 左に曲がって永福寺跡と二階堂川に沿って進みます。 永福寺跡 永福寺跡: https://www.yoritomo-japan.com/page042yofukuji.htm 永福寺跡の散策: http://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_29.html 永福寺跡が終わると二階堂川に架かる亀ヶ淵橋があります。 この橋を渡って行きます。 橋を渡らず、反対側の永福寺跡の横の道を入ると、 永福寺跡背後の山に整備された遊歩道となります。 永福寺跡を上から眺めることができます。 永福寺跡の散策: http://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_29.html 変電所を過ぎると獅子舞の谷です。 カエデの落葉 獅子舞は、紅葉・黄葉で知られた場所です。 紅葉・黄葉の季節の獅子舞の谷 https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/koyo/koyo-sisimai.htm この道を上がりきると 天園ハイキングコース に合流します。 天園の見晴台 天園ハイキングコース https://www.yoritomo-japan.com/kodou.htm 鎌倉アルプスの散策☆後編☆ http://okadosblog.blogspot.com/2010/11/blog-post_22.html 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamak

永福寺跡の散策

イメージ
永福寺跡 奥州征伐から2年後の1191年(建久2年)、 源頼朝は 永福寺 創建に着手し、翌年、苑池と中堂の二階堂が完成します。 https://www.yoritomo-japan.com/page042yofukuji.htm 永福寺復元図 (遊歩道の説明板より) 中堂は「二階堂」と呼ばれ、平泉中尊寺 大長寿院 を模したものです。 そして、1193年(建久4年)には阿弥陀堂、翌年には薬師堂が建立され、 本堂の両側に脇堂のある形が整えられました。 1200年(正治2年)に釣殿 1202年(建仁2年)に多宝塔、 1216年(建保4年)に塔 が建立されたと伝えられています。 発掘調査による建物と庭園の様子 永福寺 の三堂 は、二階堂を中心に、北に薬師堂、南に阿弥陀堂が建てられていました。 それぞれが廊で結ばれ、薬師堂と阿弥陀堂の外側には、翼廊が付けられていました。 そして、三堂の前面には苑池が設けられ、二階堂前には長い橋が架けられていました。 浄土教式苑池の寺院建築としては最大級のものだったそうです。 永福寺の背後の山は遊歩道として整備されています。 遊歩道からみた永福寺跡 鎌倉アルプス https://www.yoritomo-japan.com/kodou.htm 二階堂大路 にある テニスクラブの標識のある路地を入って行くと 永福寺跡 背後の遊歩道です。 永福寺跡 https://www.yoritomo-japan.com/page042yofukuji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

護摩焚き供養~明王院の初不動~

イメージ
明王院 は、四代将軍 藤原頼経 が創建した寺です。 1231年(寛喜3年)に発願、翌貞永元年に寺地が定められ、1235年(嘉禎元年)に寛喜寺として落慶し、開山に定豪が迎えられたといいます。 寺号は発願時の年号(寛喜)からのものといわれています。 明王院 背後の山にある 「初め弁天」 は、建設の際に清めに祀られたものだと伝えられています。 鎌倉時代には、四箇重職といって、 鶴岡八幡宮 、 勝長寿院 、 永福寺 と並ぶ別当が置かれた格式のある寺でした。 明王院 は、祈祷を使命とされた密教寺院で、中世には祈祷所として栄えました。 その後、庶民にもその信仰が移り、現在では、1月と9月に例祭が行われるようになったといいます。 「護摩焚き供養」では、大音声の祈祷の読経が行われます。 「真言密教」による「護摩焚き」は、煩悩・妄想を焼き滅ぼすという意味があるそうです。 「密教」というのは「秘密仏教」の略ともいわれていますが、現在でもその作法を明かさない宗派もあるようです。 したがって、写真などは撮らせないのが定法となっています。 ~鎌倉幕府将軍の最後の寺院建立~ 三代将軍 源実朝 が暗殺されると、鎌倉幕府は、 実朝 に嫡子がいなかったことから、 源頼朝 の遠縁にあたる 藤原頼経 を将軍に迎えます(摂家将軍)。 頼経 は、幕府の鬼門除けとして 明王院 を創建しています。 鎌倉幕府の将軍による寺院の創建は、 明王院 の創建が最後となりました。 初不動 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/hatufudo-myooin.htm 明王院 https://www.yoritomo-japan.com/page042myooin.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

荏柄天神社の御神木~大銀杏~

イメージ
荏柄天神社 は、1104年(長治元年)、にわかにかき曇った空から天神画像が降ってきたため、里人は社殿を造営してそれを祀ったと伝えられています。 そして、天神画像が降ってきた場所には、「踏まれないように」ということでイチョウの木を植えたそうです。 大銀杏 荏柄天神社 創建の頃からあると伝わる御神木です。 したがいまして、樹齢900年以上ということになります。 高さ25メートル、胴回り10メートル http://www8.plala.or.jp/bosatsu/egaratenjin-ityo.htm 1 ギンナン 御神木は雌の木ですので、ギンナンの実がなります。 毎年、たくさんのギンナンが実るそうです。 荏柄天神社の大銀杏 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/egaratenjin-ityo.htm 荏原天神社 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page041egaratenjinjya.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鶴岡八幡宮の一の鳥居

イメージ
鶴岡八幡宮 の 一の鳥居 は、国の重要文化財に指定されている「石造明神鳥居」です。 正式名称は「 鶴岡八幡宮大鳥居 (一の鳥居)」。 一の鳥居 1668年(寛文8年)、鶴岡八幡宮参道 「若宮大路」 の三つの鳥居は、徳川四代将軍家綱によって寄進されますが、1923年(大正12年)に発生した大地震によって、三つ鳥居の全てが倒潰してしまいました。 その後、 一の鳥居 だけが、もとのように復元されています(1937年(昭和12年))。 倒潰した 三の鳥居 の様子 二の鳥居 も 三の鳥居 も、 一の鳥居 と同じく石造でしたが、 一の鳥居 のように復元はされず、鉄筋コンクリート製の鳥居に建て替えられました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鳥居の数え方・・・?~ 現在、 若宮大路 の三つの鳥居は、 由比ヶ浜 から「一の鳥居」、 段葛 が始まる所の「二の鳥居」、そして、 鶴岡八幡宮 入口の「三の鳥居」といった具合に数えられています。 しかし、現在とは逆の呼び方をしていた時もあったようです。 つまり、 一の鳥居 が「三の鳥居」と呼ばれていたということです。 1685年(貞享2年)の絵図 これは、徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』所載の絵図ということですが、一の鳥居は「大鳥居」、二の鳥居は「二鳥居」、そして、三の鳥居が「一鳥居」として描かれています。 本文には・・・、 「三所に石の鳥居あり。赤橋の前の鳥居より間四町十五間半にして又鳥居あり。二の鳥居と云ふ。二の鳥居より間、六町四十五間にして鳥居あり。三の鳥居也。是を大鳥居と云ふ」 と記されているようです。 ※赤橋というのは 太鼓橋 のことです。 『新編鎌倉志』の他にも、『鎌倉三五記』(紀伊国屋文左衛門)、『東海道名所絵伝』、『鎌倉詣』といった書物にも同じ内容の記載があるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~崇源院の願いによる鳥居~ 徳川二代将軍秀忠の妻は「お江」です。 のちに崇源院と呼ばれますが、崇源院は 鶴岡八幡宮 の 弁財天 を信仰していたといいます(参考: 旗上弁財天社 )。 ある夜、崇源院の夢の中に弁財天が現れて、「木造の鳥居を石造にするように」と告げたといいます。 そして、完成したのが現在の石造鳥居と伝えられています。 一の鳥居 1