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6月 19, 2011の投稿を表示しています

鎌倉光明寺2011/06/25

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宗祖法然上人八百年大御忌を間近に控えた鎌倉 光明寺 。 大聖閣 一昨年(2009年)に建てられた新しいお堂です。 記主庭園 では、 ハス がそろそろ咲きそうな気配です。 観蓮会は7月23日、24日です。 https://www.yoritomo-japan.com/komyoji-kishu.htm 記主庭園 の亀 大殿 鎌倉の木造古建築物では最大のお堂です。 畳の張り替えが行われたばかりのようで、いい香りがしていました。 https://www.yoritomo-japan.com/komyoji-ooden.htm 宗祖法然上人八百年大御忌は、7月4日、5日、6日です。 光明寺 https://www.yoritomo-japan.com/page135komyoji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

七夕飾り2011/06/25~鎌倉~

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もうすぐ七夕です。 鶴岡八幡宮 でも 七夕 の飾り付けが始まりました。 小町通り・・・瀬戸橋 二の鳥居 鳩サブレーの豊島屋さん 三の鳥居 若宮 七夕祭 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/tanabata.htm 七夕まつり http://okadosblog.blogspot.com/2011/06/blog-post_7939.html 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉の海・・・もうすぐ海開き

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鎌倉の海開きは7月1日です。 材木座海岸 海の家の建設も進んでいます。 滑川 にも橋が架けられました。 この橋は9月頃まで架けられています。 由比ヶ浜 でも海の家が完成間近な状況です。 光則寺 裏山から見た 鎌倉の海 鎌倉の海 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/umi.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉光則寺のハンゲショウ2011/06/25

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夏至から数えて11日目に当たる日は、「半夏生」(はんげしょう)と呼ばれてきました。 農家にとっては、この日までに農作業を終えることが良いとされてきたそうです。麦の収穫と田植えが終わり一段落といった頃なのでしょうか・・・。 この「半夏生」の頃に咲くのが 「ハンゲショウ」 です。 名の由来は、「半夏生」の頃に咲くからという説と、 葉の一部が白くなることから「半化粧」であるという説があるようです。 光則寺 では、本堂前の カイドウ の木の下に群生しています。 ヤマアジサイとハンゲショウ 地方によっては、半夏生の日にタコやサバを食べる風習があるそうです。 ハンゲショウ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/hangesho.htm 光則寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136kosokuji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

有罪か無罪か・・・起請文と起請失

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1235年(嘉禎元年)閏6月28日、起請失(きしょうとが)の篇目が定められました。 「起請失」というのは、起請文が真実でなかった場合をいうそうですが・・・ 神社などに14日間籠もって、以下の事が起こらなかったら無罪ということなのだそうです。 ①鼻血が出る ②病気になる ③鳶烏の糞がかかる ④鼠に衣装を食べられる ⑤体から血を流す ⑥重軽の喪に服す ⑦父子に罪科人がでる ⑧飲食の時にむせる ⑨馬が倒れる 神社等に参籠させられると、神仏などに誓約する「起請文」を書くのですが、上記の事が起こると「起請文」の内容は真実ではないと判断されるということです。 現代では考えられない法令ですが、鎌倉時代、 神仏に誓約 するということは重大な事だったのです。 「神仏に嘘をつくことはできない」ということなのでしょうね。 神仏に嘘をつけば、鼻血も出るし、トビの糞が落ちてくるのです・・・。 鶴岡八幡宮 1230年(寛喜2年)5月5日、常御所に盗人が入り、下級武士と美女が捕らえられました。 翌日、2人は 鶴岡八幡宮 に参籠させられ起請文を書いています。 この2人は起請失があったため有罪となったということです。 法令が施行させる前から行われていた事のようです。 荏原天神社 1244(寛元2年)7月20日、落合泰宗と市河氏の女子藤原氏は、密通の罪で 荏柄天神社 に参籠させられ起請文を書いています。 藤原氏の夫からの訴えであったようですが、2人は無罪となったようです。

源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府

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源頼朝 は、1180年(治承4年)10月6日、 畠山重忠 を先陣に本拠と定めた鎌倉に入りました。 『吾妻鏡』によれば・・・ 石橋山の合戦 で敗れ、安房で再起を掛けようとしていた 頼朝 に、 「安房は要害の地ではなく、源家に縁の地でもない」 といって鎌倉入りを進言したのは 千葉常胤 だったといいます。 元八幡 頼朝 の先祖 源頼義 が、 1063年(康平6年)、 石清水八幡宮 を勧請し創建しました。 https://www.yoritomo-japan.com/page135motohatiman.htm 鎌倉に入った 頼朝 は、その日は民家に泊まり、翌10月7日には 鶴岡若宮(元八幡) を遙拝し、父 義朝 の亀谷の館跡を訪れています。 頼朝 は、 義朝 の館跡に新亭を建てるよう命じていますが、新造するには狭く、 岡崎義実 が 義朝 を弔うために建てた祠があったことから、取り止めにしています。 壽福寺 頼朝 の父 義朝 の屋敷はこの辺りにあったといわれています。 義朝 の屋敷からの 六浦道 沿いには、 窟堂 、 荏柄天神社 、 杉本寺 という寺社が並んでいます。 これらは、 頼朝 が鎌倉に入る前からあったもので、 六浦道 はこのころから整備されていたものと考えられます。 また、 義朝 の屋敷は沼浜(参考: 法勝寺 )にもあったということですので、 鎌倉は古くから房総を望む拠点であったということなのでしょう。 https://www.yoritomo-japan.com/page137jyufukuji.htm 頼朝 の新亭造営は、10月9日、 大庭景義 を奉行として工事が始められました。 まずは、新造の建物ではなく、山ノ内にあった首藤兼道の旧宅が移築されています。 安倍晴明の護符の御加護で「200年もの間火災にも遭わずにいた」ということから移築されたという伝説が残されていますが・・・ 最大の理由は、 頼朝 の宿所を早急に整える必要があったからなのではないでしょうか・・・。 (参考: 陰陽師安倍晴明の伝説~鎌倉:山ノ内~ ) 大倉幕府跡 現在の清泉小学校のある辺り一帯が 頼朝 の邸宅があった場所です。 大倉幕府と呼ばれるのは、 頼朝 が邸宅で政治を行ったためです。 https://

征夷大将軍と源頼朝

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1189年(文治5年)、奥州の藤原氏を滅亡させ、後方の脅威を取り除いた 源頼朝 は、翌1190年(建久元年)11月に上洛を果たします。 (参考: 源頼朝の上洛・・・権大納言・右近衛大将 ) ~右大将と政所下文~ 上洛の際、 頼朝 は後白河法皇や後鳥羽天皇に謁見しますが、かねてから望んでいた征夷大将軍の官職は与えてもらえず、代わりに右近衛大将の職が与えられました(権大納言兼任)。 12月1日、 頼朝 は盛大な拝賀の儀式を行いますが、12月4日には両方の職を辞任しています。 鎌倉に帰った 頼朝 は、1191年(建久2年)正月15日、政所の文書はじめを行っています。 右近衛大将は辞任しましたが、政所下文には「前右大将」(さきのうだいしょう)という肩書きを利用しています。 (※右近衛大将=右大将) ~征夷大将軍~ 1192年(建久3年)3月、後白河法皇が亡くなりました。 法皇の死によって 頼朝 と連携してきた九条兼実が関白となり、兼実の弟慈円は天台座主、娘は後鳥羽天皇の中宮となります。 そして、7月、 頼朝 は念願の征夷大将軍に任命されます。 源頼朝像 「征夷大将軍」というのは、古代律令国家において、「東夷」(あずまえびす)を討伐するために任命された職です。 天皇の判断を仰ぐ必要がない「軍の最高司令官」としての権限が備わっていたといわれていますので、鎌倉に武家政権を樹立し、全国の武士の総帥となった 頼朝 にとっては、一番合った職だったのかもしれません。 奥州藤原氏を倒した後のことですので、「頼朝にとっては意味のない任命だった」 とする説もあるようですが、 その時の 頼朝 の地位を全国に知らしめるには、これ以上にない称号「征夷大将軍」ではなかったのではないでしょうか・・・。 ~征夷大将軍の辞任~ さて、 頼朝 は征夷大将軍の職を数年で辞任しているという説があります。 これは、政所下文の形式をみるとわかるそうです。 1191年(建久2年)、鎌倉幕府には政所が正式に置かれました。 それ以後に出された政所下文には、「前 右大将家 政所下」と書かれているようです。 上述しましたが、前年、右近衛大将となった 頼朝 でしたが、すぐに辞任しているので「前右大将」としています。 そして、1192年

ツバメ

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某所にあるツバメの巣です。 ツバメの子です。 昨日まで4羽いましたが、2羽は飛行訓練に出掛けてます。 早く君たちも飛行訓練に行けるといいですねぇ~。

心平寺地蔵と斎田地蔵~建長寺仏殿~

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建長寺 の 仏殿 の右にある脇壇には、千体地蔵にかこまれて「心平寺地蔵」が安置されています。 建長寺 創建前にあった心平寺の本尊であったと伝えられています。 心平寺地蔵 心平寺のあった谷は「地獄谷」と呼ばれていたそうです。 その地獄谷で斎田左衛門という者が無実の罪で斬首されようとしていました。 しかし、討手が何度刀をふりおろしても左衛門の首は斬れなかったそうです。 それは、左衛門が日頃信心していた地蔵の小像を髻(もとどり)の中に納めていたからだといいます。 小像には刀の切り傷が残されていました。 命を助けられた左衛門は、自分の身代わりになってくれた地蔵に感謝しました。 そして、その小像を心平寺地蔵の頭の中に納めたそうです。 その後、 建長寺 が創建されると、 仏殿 本尊の地蔵菩薩像の胎内に移されたといわれています。 心平寺の地蔵堂 横浜の 三渓園 には、 建長寺 から移築された地蔵堂があります。 この地蔵堂は、 建長寺 の塔頭であった心平寺の地蔵堂と伝えられています。 斎田左衛門が信心していた地蔵の小像は、「斎田地蔵」と呼ばれています。 斎田地蔵 現在は 仏殿 本尊の胎内にはなく、別に安置されています(11月の 宝物風入 の際に拝観することができます。)。 現在の 仏殿 本尊の胎内には、その模像が納められているそうです。 ※「斎田」という字ではなく「済田」という字が正しいのかもしれません。 建長寺仏殿 https://www.yoritomo-japan.com/kentyoji-butuden.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 横浜三渓園 鶴翔閣 (かくしょうかく) 御門 (ごもん) 白雲邸 (はくうんてい) 臨春閣 (りんしゅんかく) 旧天瑞寺寿塔覆堂 (てんずいじじゅとうおおいどう) 豊臣秀吉愛用の手水鉢 月華殿 金毛窟 (きんもうくつ) 天授院 聴秋閣 春草廬 蓮華院 家形石棺身 舟型石棺藍 旧燈明寺三重塔 林洞庵