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10月 30, 2011の投稿を表示しています

安国論寺のサザンカ

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安国論寺 のサザンカは、樹齢350年ともいわれる古木で、鎌倉市の天然記念物に指定されています。 (写真:2009年11月15日) 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

神明大神宮と宝生寺~懐嶋郷:茅ヶ崎市~

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懐嶋郷(茅ヶ崎市)は、大庭景義の所領。 茅ヶ崎市円蔵にある 神明大神宮 の辺りに景義の懐嶋館があったといわれています。 神明大神宮 大庭景義は、 石橋山の戦い で 源頼朝 に敵対した大庭景親の兄。 大庭氏 は、先祖鎌倉権五郎景政が開拓した大庭御厨の下司を務めていた一族です。 (参考: 大庭城址とその周辺の散策 ) 長男の景義は、1156年(保元元年)の 保元の乱 で、弓の名手源為朝の矢を受け負傷したことから、弟の景親に家督を譲ったものと考えられています。 ~為朝と景義~ 1156年(保元元年)の 保元の乱 で景義は、弟景親とともに 源義朝 について戦いました。 そのとき、源為朝の矢を受け負傷します。 為朝は、「必中必殺」といわれたほどの弓の名手でしたが、何故か両者の馬が後退し、態勢を崩した為朝は、景義を撃ち殺すことができませんでした。 為朝は、「大庭景義ほど運のよい武士はいない」と語ったといいます。 (参考: 鎌倉十井:六角ノ井 ) 懐山館址碑と大庭景義像 1180年(治承4年)、 源頼朝 が挙兵すると、景義は 頼朝 につき、景親は平氏方につきました。 その後、景親は捕らえられ、片瀬で斬首されています。 (参考: 明暗が分かれた大庭兄弟(景義と景親)~石橋山の戦い~ )。 また、俣野郷を領していた俣野景久も景義の弟ですが、景久も 石橋山の戦い では景親の軍に入って頼朝に敵対しました。のちに加賀国で討死したと伝えられています。 横浜市戸塚区にある 俣野観音堂 には、景久ゆかりの観音像が安置されています。 (参考: 俣野景久が領した俣野郷の史跡巡り ) 懐山館址にある層塔 頼朝 についた景義は、 頼朝 が鎌倉に入ると、 御所 や 鶴岡八幡宮 の造営に携わり、 源平池 の造営も奉行しています。 懐嶋館址にある層塔には、景義邸・ 源平池 ・ 和田塚 の三ヶ所の土が納められています。 ※景義の子景兼は、1213年(建保元年)の 和田合戦 で、 和田義盛 に味方して討死しています。 奥州征伐のことが刻まれた碑 1189年(文治5年)、 頼朝 は奥州藤原泰衡を討つため兵を集めますが、朝廷からの勅許がありませんでした。 焦っていた 頼朝 に景義は、

梶原景時館址・・・一宮館

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相模国一宮(寒川町)は、 梶原景時 の所領だった地です。 1199年(正治元年)11月、結城朝光を讒言したことで、御家人66名の連判状を提出された 景時 は、一族とともに一宮に退きます。 梶原景時館址(一宮館址) 「梶原景時館址」の石碑が建てられている場所は、 梶原景時 の一宮館の物見があったところで、当時は一段高くなっていたと伝えられています。 天満宮 石碑の背後の祠は天満宮です。梶原氏の風雅をたたえ里人が創建したものといわれています。 梶原景時像(大田区 万福寺 ) 鎌倉を追放された翌年正月20日、 景時 は、密かに一宮を発って上洛しようとしますが、駿河国清見関で在地武士と合戦となり、一族とともに討死しました。 (参考: 梶原景時の変    梶原景時の変(okadoのブログ) ) 梶原景時一宮館址の案内図 景時 の 一宮館 は、かなり広大な面積だったと考えられています。 伝梶原氏一族郎党(七士)の墓 「梶原景時館址」の石碑の近くには、梶原氏一族郎党(七士)の墓と伝えられている墓石群があります。 駿河国清見関で討死した梶原景時一族郎党を、一宮館で留守をしていた家族、家臣が弔ったものと伝わっているそうです。 また一説には・・・ 景時 の夫人を守って信州に逃れていた家臣七人は、世情が変わったのみて、鎌倉に梶原氏の復権・所領安堵を求めます。 しかし、許されることはなく、七士はその場で自害して果てたといいます。 この墓は、その七士を祀ったものともいわれているようです。 一宮館の内堀の名残といわれる水路 梶原氏一族郎党(七士)の墓の背後の水路は、一宮館の内堀の名残といわれています。 梶原景季 梶原景季 は、 景時 の長男。 宇治川の戦いの折の佐々木高綱との先陣争いで知られている武将です。 (参考: 宇治川の先陣争い~高綱の生月と景季の磨墨~ ) 梶原景時の墓 (東京大田区・万福寺) 梶原景時の墓 (鎌倉市)

常花(じょうか)

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お寺で見かける常花(じょうか)。 「蓮華」の造花で、通常、左右一対で置かれているようです。 一般家庭の仏壇にも置かれています(浄土真宗では置かないようですが・・・)。 よく見ると・・・ 咲いている蓮、 蕾の蓮、 枯れてしまった蓮 があります。 これは三世(過去・現在・未来)を表しているのだそうです。 (※写真は、 鎌倉大仏 の前に置かれている常花です。)

湘南キャンドル2011・・・江ノ島

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江ノ島 の サムエル・コッキング苑 で開催されている 「湘南キャンドル」 。 江no・Fes(江ノ島フェスティバル)のフィナーレを飾るイベント。苑内では、5000基のキャンドルに火が灯されます。 11月6日(日)まで・・・。 (17:00~20:00) 江ノ島Sea Candle(展望灯台) 江ノ島 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

源義仲と源頼朝

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源頼朝 の挙兵から間もない1180年(治承4年)9月、 源義仲 が挙兵し、市原の合戦で平氏方の笠原頼直を破ります。 翌年6月には、千曲川横田河原でも平氏軍を破り北陸に侵攻しています。 義仲の父は、東宮帯刀先生と呼ばれた 源義賢 。 源義朝 と対立し、1155年(久寿2年)8月、 義朝 の長子悪源太 義平 に武蔵国にあった 大蔵館 を襲撃され討たれてしまいました。 (※義賢と 義朝 は異母兄弟。したがって、 頼朝 と義仲は従兄弟にあたります。) 『吾妻鏡』によれば・・・ 父義賢が討たれたとき3歳だった義仲は、乳母夫の中原兼遠に抱かれて信州の木曽へ逃れ、兼遠の庇護のもとに育てられたのだといいます。 光照寺 (逗子市沼間) 逗子市の 光照寺 は、 義平 の菩提寺。父 義朝 の居館(沼浜亭)があったと伝えられています(参考: 法勝寺 (逗子市))。 義平 は、1155年(久寿2年)に義仲の父義賢を討った当時、鎌倉か逗子の義朝邸にいたものと考えられます。 ~頼朝と義仲の対立~ 1183年(寿永2年)3月、 頼朝 と対立した志田義広と源行家を義仲が匿ったことで、 頼朝 と義仲とが対立、 頼朝 は義仲追討のため、10万騎で善光寺に押し寄せました。 (※志田義広と源行家は、 頼朝 と義仲にとっては叔父にあたります。) その結果、義仲が長子義高を人質として鎌倉へ送ることで和議が成立しています。 岩船地蔵堂 人質として送られてきた義高は、 頼朝 の娘大姫と結婚します(政略結婚)。しかし、のちに父義仲が討たれると義高も殺されました(参考: 木曽義高の誅殺 )。 大姫はそのショックで病気となり生涯治ることはなかったといいます。 扇ヶ谷の 岩船地蔵堂 には、大姫の守り本尊が安置されているといいます。 大船の 常楽寺 の裏山には、義高の墓と伝わる 木曽塚 があります。 ~義仲の入京~ 頼朝 との和議によって後方の憂いを取り除いた義仲は、北陸道を京都に進軍します。 5月には倶利伽羅峠で平氏軍を破るとさらに進軍を続け、平氏一門を都落ちさせ、7月28日に入京しました。 しかし、義仲の入京によって京都の治安は悪化。後白河法皇は 頼朝 の上洛を望むようになります。