投稿

2月 18, 2024の投稿を表示しています

高階貴子は伊勢斎宮の恬子内親王と在原業平の子孫?

イメージ
藤原道隆 の正妻・ 高階貴子 の曾祖父・高階師尚は、伊勢斎宮の恬子内親王と 在原業平 の密通によって誕生したという噂があります。 貴子 の孫・ 敦康親王 ( 藤原定子 の子)は、そのせいで東宮(皇太子)になれなかったのだという噂も。 藤原行成 が 一条天皇 に高階氏は伊勢神宮に憚るところがあると進言したのだとか。 行成 の『権記』には、 「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」 とあるようです。 ただ、後世の加筆ではないかという説もあるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

安倍晴明:閻魔大王から授かった五芒星パワー~真如堂の不動明王伝説~

イメージ
真如堂 の本尊・阿弥陀如来の脇侍の不動明王は、平安時代に活躍した陰陽師・ 安倍晴明 の念持仏。 晴明 が横死したときに閻魔大王に頼んで蘇生させたという伝説の像。 不慮の死で閻魔大王の裁判を受けることとなった 安倍晴明 。 そこへ不動明王が現れて晴明の命乞いをします。 その願いを聞き届けた閻魔大王は晴明に 「天寿を全うでき、死後にこの印を持ってきた者は必ず極楽往生できる五行之印(決定往生の秘印)」 を授けます。 蘇った晴明は、85歳まで生き、多くの人々に印を施したのだとか。 真如堂 真如堂 は、984年(永観2年)、 藤原詮子 の離宮に 比叡山 の 常行堂 にあった阿弥陀如来を安置したことに始まります。 阿弥陀如来は慈覚大師円仁の作で 「うなづきの弥陀」 と呼ばれています。 晴明神社 晴明神社 は、 晴明 の死後、 一条天皇 が晴明の偉業を讃えるために創建。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

藤原忯子の妹と藤原伊周と花山法皇~長徳の変~

イメージ
花山天皇 に寵愛された 藤原忯子 は、 藤原為光 の次女。 長女は、 藤原義懐 の正室。 三女は、 寝殿の上 で 藤原伊周 の妾。 四女は、 花山法皇 が愛人とした 藤原儼子 。 この三女と四女をめぐって996年(長徳2年)1月16日に起こったのが 藤原伊周 が 花山法皇 を襲撃した 長徳の変 。 伊周 と 花山法皇 は同じ頃に 為光 の娘のところに通っていましたが、伊周は花山法皇が 寝殿の上 のところに通っていると勘違いしてしまったのだとか。 寝殿の上 は伊周の妾となる前は 源雅信 の妻だったらしい。 儼子 は、花山法皇の崩御後、 藤原妍子 の女官となり、のちに 藤原道長 の妾となっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部の歌~雪深い越前から都へ帰りたい~

イメージ
紫式部歌碑 (越前市 蔵の辻) 「ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」 父・ 藤原為時 とともに越前武生で暮らした 紫式部 が「早く都へ戻りたい」という思いから詠んだ歌。 雪掻きをして山のようになった雪に登った人が、「外に出てこの山をご覧なさいませ」 と言うが・・・ それが都へ帰る途中の鹿蒜山(かえるやま・木ノ芽峠)なら喜んで見てみようと思うけれど・・・ 鹿蒜神社 (南越前町) 鹿蒜神社 は、996年(長徳2年)、 木ノ芽峠 を越えて武生へ向かったといわれる 紫式部 が参拝したという社。 歌の中の「帰る山路」は「鹿蒜山」(帰山)のことで、「鹿蒜」と「帰る」を懸けたものらしい。 2月23日オープン ☆ ☆ ☆ ☆ ☆