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宇治川の戦い~承久の乱~

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宇治川は京都防衛上の要衝。 1180年(治承4年)には、以仁王と 源頼政 が平家軍と戦いました。 1184年(元暦元年)には、 源義経 が宇治川を突破して 木曽義仲 を敗走させています。 1221年(承久3年)の 承久の乱 では、 北条泰時 が宇治川を突破し、朝廷軍を破りました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~北条泰時の宇治川の戦い~ 1221年(承久3年)5月、 後鳥羽上皇 の挙兵に対して大軍を上洛させた幕府軍。 『吾妻鏡』によると・・・ 6月13日、雨、 北条泰時 は宇治の栗小山に陣営を張りました。 足利義氏と 三浦泰村 は、泰時に知らせずに 宇治橋 で朝廷軍と合戦に及びますが、朝廷軍の発した矢石が雨のように幕府軍の兵たちに降り注ぎ、多くの者が負傷したので 平等院 に籠ります。 夜になって義氏は、泰時に使者を送ります。 その内容は、 「夜が明けるのを待って合戦に及ぼうと思っていたが、勇敢な兵どもは先陣を争って矢合戦を始めてしまい、多くの死傷者を出している」 というもの。 驚いた泰時は豪雨の中、 宇治橋 へ向かい、橋上での戦いを止めるように命じています。 宇治橋 平等院 翌14日早朝、前夜 平等院 で休息をとった 北条泰時 は、宇治川を渡って戦うこととします。 宇治川は、昨日の雨で水量が増え、水は濁って白波を立てている状況でしたが、浅瀬を探させて、芝田兼義・春日貞幸、佐々木信綱・中山重継・安東忠家らが川を渡り始めました。 これを見た朝廷軍は矢を放ち、芝田兼義と春日貞幸の馬が矢に当たって流され、春日貞幸は水底に沈みますが、心で諏訪明神に祈りながら、腰刀で鎧の帯や小具足を切ってなんとか浅瀬にたどり着いたのだとか。 ただ、貞幸の子や郎党17人が水に流されました。 その後、軍兵の多くが川へ入りますが、流れが急なため、戦う前に流され、関政綱・幸島行時・伊佐為宗・三善康知・長江明義・安保実光をはじめとする96名と、それらに従っていた兵800騎が溺死。 佐々木信綱は、中州から長男の重綱を泰時の陣へと遣わして援軍を求め、泰時の命を受けた子の時氏が六騎を引き連れて川を渡り始めます。 三浦泰村 をはじめとする数騎も渡り始めました。 泰時も川を渡ろうとしますが、春日貞

宇都宮頼業が活躍した瀬田の合戦~承久の乱~

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1221年(承久3年)5月15日、 後鳥羽上皇 が 北条義時 追討の 院宣 を下したことで、5月22日、幕府軍は東海道・東山道・北陸道の三道に分けて総勢19万騎で京都に向けて進軍を開始しました。 東海道の大将軍: 北条時房 ・ 北条泰時 らは6月12日に近江国野路に到達。 翌13日、時房は雨の中を瀬田へ出陣。 瀬田の唐橋 『吾妻鏡』によると・・・ 瀬田橋 の中ほどの二間分の敷板が引き落とされ、その向こうには楯を並べ弓矢を構えた朝廷軍と 比叡山 の僧兵達が並んでいました。 『承久記』によると・・・ 朝廷軍の大将は 山田重忠 。 幕府軍は橋を渡ろうと攻め込みますが、朝廷軍に矢を射かけられ、僧兵には長刀で切り落とされてしまいます。 この攻防で、幕府軍の主力の一人だった熊谷直国( 熊谷直実 の子)が討たれました。 その中で、宇都宮頼業( 宇都宮頼綱 の子)は遠矢を射て戦います。 そこへ、信濃国の住人福地俊政と書き付けられた矢が頼業の冑の鉢に当たります。 放ってはおけぬと頼業も自分の名を記した矢を放ちます。 すると、矢は三町余り(300メートル以上)も飛んで大将の 山田重忠 の傍に突き刺さったのだとか・・・ その後、朝廷軍は船から幕府軍を攻めますが、頼業に法師二人が射られると退いていったのだといいます。 それは見た時房が「戦いは今日ばかりではない。矢種を尽くさないように」と命じたので、この日の戦いは終わったのだそうです。 かつては、「 瀬田橋 を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋でした。 1184年(寿永3年)1月20日、 源頼朝 が 木曽義仲 を追討する際には、 源範頼 が瀬田から、 源義経 が宇治から京へ入り、義仲を粟津で滅ぼしています。 1221年(承久3年)の 承久の乱 では、6月14日、 北条時房 率いる幕府軍が 瀬田橋 で朝廷軍を敗走させて、京市中へ進軍しました。 鎌倉との繋がりを求めて。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条義時追討の宣旨に対する返書

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『吾妻鏡』によると・・・ 1221(承久3年)5月27日、 北条義時 は、院の使い(押松丸)を京都へ返します。 押松丸は、5月15日に発せられた 「義時追討の宣旨」 を持って鎌倉に潜入し捕らえられていました。 押松丸には、宣旨に対する返書を持たせています。 『北条九代記』によると、その内容は・・・ 「義時は院に忠義を尽くしてまいりましたのに、讒言をお信じになられたことで、違勅の者とされました。 そのため、弟の 時房 、子の 泰時 ・朝時をはじめとする十九万騎の軍勢を上洛させます。 それでもお考え違いなさっているときは、子の重時・政村をはじめとする二十万騎を率いて、義時自身が参上いたしましょう」 『吾妻鏡』・『北条九代記』によると・・・ 6月1日、京都に着いた押松丸は御所に参上。 「義時の首は誰が取った?」 「義時はどこへ逃げた?」 という質問が相次いだのだといいます。 後鳥羽上皇も関東の情勢について尋ねますが・・・ 押松丸が「三浦胤義の手紙を 三浦義村 が受け取って義時に見せてからは、鎌倉が騒然とし、諸国から兵が集まり、官軍と戦うために上洛してくる関東武士は幾千万にも及びます」 と報告すると、院中の人々は驚くほかなかったのだといいます。 「承久記絵巻」   三浦義村 が 北条義時 に弟胤義から送られてきた手紙を見せる場面。 『吾妻鏡』によると、胤義が義村に送った手紙には「勅命にしたがって義時を追討するように」と書かれていたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ