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4月 10, 2011の投稿を表示しています

俺たち朝

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鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

諸葛采(しょかっさい)~浄妙寺~

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諸葛采は、別名「花大根」とか「紫花菜」(ムラサキハナナ)と呼ばれているアブラナ科の植物です。 写真は、 浄妙寺 の裏山の散策路に群生している諸葛采です。

二ツ橋の桃と御衣黄~明王院~

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滑川 に架けられた二ツ橋の桃が満開です。 二ツ橋は、 明王院 の前に架けられた橋です。 白から濃いピンクまでいろんな色の花を咲かせています。 桃の木の後ろにある公園には、 京都仁和寺発祥という 「御衣黄」 が植えられています。 緑の花を咲かせるヤマザクラですが、 まだ咲き始めといったところです。 鎌倉のモモ(桃) http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/momo.htm 御衣黄~緑の桜~ http://www8.plala.or.jp/bosatsu/myooin-gyoiko.htm 明王院 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page042myooin.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

獅子舞の新緑

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永福寺跡 の前を流れる二階堂川の亀ヶ淵橋を渡って山に入っていくと 獅子舞 の谷があります。 紅葉の季節にはたくさんの観光客が訪れる谷ですが、新緑の季節もきれいです。 昨日は、かなり強い風が吹いたので、ところどころに桜の花びらが・・・ 天園の見晴台から・・・ 曇っているのでよくわからないかもしれませんが、 山 にはヤマザクラが満開です。 鎌倉の古道 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kodou-top.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

新芽が出た大銀杏2011~鶴岡八幡宮~

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昨年3月10日に倒伏した 鶴岡八幡宮 の 大銀杏 は、根の部分は整備された元の位置に植えられ、切断された幹が別の場所に移植されました。 昨年は、4月1日に新芽が出ていることが確認され、根付くことが期待されていましたが、今年も根の部分からは新しい芽が出ていました。 元の位置にある根の部分 新しい芽がたくさん出てきています。 移植された幹はどうなるのか心配しておりましたが、 昨年出てきた枝には多くの芽が膨らんでいるように見えました。 緑の葉が出てくるのが楽しみです。 鶴岡八幡宮の大銀杏 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/ooityo-hatiman.htm 鶴岡八幡宮 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page041hatiman.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

足利持氏の供養塔~永享の乱:別願寺~

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1333年(元寇3年)、 鎌倉幕府の滅亡 後、一時 後醍醐天皇 の政権となりますが、間もなく 足利尊氏 によって室町幕府が開かれます。 鎌倉には、関東支配のための鎌倉府が置かれ、尊氏の嫡男足利義詮(室町幕府二代将軍)がその任に就いていました。 1349年(貞和5・正平4年)、義詮が京に上り、代わって弟の 足利基氏 が鎌倉の主として赴任します。そして「鎌倉公方」として関東を治めることとなります。 鎌倉公方の御所は、足利氏にとってゆかりのある浄明寺にありました(参考: 鎌倉公方屋敷跡 )。 鎌倉公方は、基氏→氏満→満兼と続き、四代目に 持氏 が就任しています。 足利持氏の供養塔 四代鎌倉公方の 足利持氏 は、京都の将軍家と対立し、ついに1438年(永享10年)、将軍足利義教に対して反乱を起こします。 永享の乱 と呼ばれています。 戦いに敗れた持氏は、二階堂の 永安寺 に閉じこめられ、1439年(永享11年)、自害したと伝えられています。 この時、持氏の嫡子義久も 報国寺 で自害しました。 大町の 別願寺 には、 持氏 のものと伝わる宝塔があります。 ~血書願文~ 持氏 は、1434年(永享6年)、 鶴岡八幡宮 に血を混ぜて書いた願文を奉納しています。 将軍義教を退けるための願文といわれ、鶴岡八幡宮宝物殿で拝観することができます。 持氏の供養塔 の四方には鳥居が浮彫されています。 これは、持氏の怒りを静めるためだと伝えられています。 ~永享の乱後の鎌倉~ 永享の乱 によって、長らく鎌倉公方は途絶えていましたが、1447年(文安4年)、幕府は 持氏 の遺児成氏が鎌倉公方となることを認めます。 しかし、鎌倉公方と上杉家との対立が深まり、1454年(享徳3年)、成氏が上杉憲忠を暗殺したことで合戦となります( 享徳の乱 )。 1455年(康生元年)、成氏は上杉を援護した今川範忠に攻められ古河に敗走しました。 こうして、 源頼朝 以来、長い間「武家の府」として栄えた鎌倉も、成氏が古河に移ったことで政治の中心から離れることになります。 そして、小田原北条氏が台頭してくると、鎌倉に残っていた商工業者も小田原に移り、鎌倉はもとの農漁村となりました。 別願寺 瑞泉寺総門 瑞泉寺総門辺りに

立正安国論~鎌倉と日蓮~

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「法華経こそが真の教え」と唱えた 日蓮 は、1254年(建長6年)、名越松葉ヶ谷に庵を結び鎌倉での布教をはじめました。 (小庵の旧跡として、 安国論寺 、 長勝寺 、 妙法寺 がありますが、実際に何処にあったのかは定かではありません。) 弟子として、材木座の 実相寺 を開いた日昭や長谷の 光則寺 を開いた日朗がいました。 日蓮辻説法跡 小町大路 には、日蓮が法華経の流布のために演説を行ったという 辻説法跡 が残されています。 この辻説法によって、長谷の 収玄寺 にゆかりのある四条金吾などの武将も 日蓮 の活動に参加しています。 安国論寺の御小庵 この庵の奥に御法窟と呼ばれる岩窟があります。 日蓮 は、ここで『立正安国論』を著したと伝わっています。 https://www.yoritomo-japan.com/page126ankokuronji.htm 1260年(文応元年)7月16日、日蓮は、『立正安国論』を書き上げ、宿谷光則を通じて当時の最高権力者である得宗 北条時頼 に提出します。 その冒頭には、 「天変地異・飢饉・疫病が遍く天下に満ち広く地上を覆っている。牛馬はそこかしこに倒れ人の屍は路にあふれている。 死者は大半を超へ、これを悲しまない人は一人もいない。」 と記されています。 この頃の鎌倉は、地震や洪水などの自然災害が頻発していました。当時の鎌倉の街は『立正安国論』の冒頭に記されたとおりの状況であったと考えられています。 さらに、法然の念仏を批判し、 「念仏を禁止して正しい教えを広めなければ 外国の侵略があり内乱が起こる。 」 と予言しています。 蒙古襲来(元寇) と 二月騒動 の予言です。 しかし、幕府には受け入れられず、念仏信者によって松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされます(松葉ヶ谷の法難(参考: 安国論寺 ・ 妙法寺 ))。 翌年には、再び鎌倉で活動を始めますが、幕府は 日蓮 を逮捕し伊豆の伊東に流しました(伊豆の法難(参考: 妙長寺 ))。 それから2年後の1263年(弘長3年)、許された 日蓮 は再び鎌倉で布教を開始します。 翌年には、念仏信者の東條景信に襲われ重傷を負いますが、さらに自信を深め活動したといいます(小松原の法難)