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富士の巻狩りと曽我兄弟の仇討ちと源範頼の謀叛~鎌倉検定~

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富士の巻狩のとき、[   曽我   ]兄弟(十郎祐成。五郎時致)が父の仇である工藤祐経を討つ事件がおこった際、[   源範頼   ]は兄頼朝に対する謀反を疑われて伊豆に流され、後に殺された。 (第5回鎌倉検定試験1級) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 富士裾野巻狩り は、征夷大将軍となった 源頼朝 が催した大軍事演習。 その時に起こったのが 曽我兄弟の仇討ち 事件。 1193年(建久4年)5月28日、十郎祐成と五郎時致の兄弟は、父 河津祐泰 の仇・ 工藤祐経 の宿所を襲い、見事に討ち取りました。 しかし・・・ 十郎祐成は 仁田忠常 に討ち取られ、五郎時致は捕らえられて梟首されています。 工藤祐経の墓 (富士宮市) 曽我兄弟の墓 (富士宮市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 白糸の滝 白糸の滝 は世界文化遺産 「富士山」 の構成資産。 この滝を見た頼朝は・・・ 「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」 と詠んだとのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 5月28日の曽我兄弟の仇討ち事件では、頼朝は無事だったのですが・・・ 『保暦間記』によると、 鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わり、心配する 北条政子 に頼朝の弟 範頼 は「私がいるから心配ない」と発言。 これを知った頼朝は、範頼の謀叛を疑ったのだとか。 ただ・・・ 『吾妻鏡』には、5月30日に富士裾野からの使者が到着した記事が載せられていますが、曽我兄弟の仇討ちがあったことのみを伝えているだけのようです。 曽我兄弟の仇討ち以降、範頼が『吾妻鏡』に登場するのは8月2日です。 この日、範頼は、起請文を書いて頼朝に提出しました。 これは、反逆を企んでいると聞いた頼朝が、それを範頼に尋ねたため書かれたもの。 だだ、起請文の署名が三河守源範頼となっていたため、 頼朝は「源の文字を使うのは、源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」 として激怒したそうです。 そのことは範頼に伝えられています。 ※何が原因で謀叛なのかが不明です。 8月10日、範頼の家来・当麻太郎が、頼朝の本心を確かめようと頼朝の寝所の床下に忍び込みます。 しかし、頼朝に感づかれて捕らえらえてしまいます。

御霊神社の面掛行列~鎌倉検定~

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毎年 9 月 18 日に、〔  御霊神社  〕例祭で伎楽面や田楽面などをつけて行われる面掛行列は,神奈川県の無形民俗文化財に指定されており、〔  江戸  〕時代中ごろから行われているという。 (第11回鎌倉検定試験2級) (第4回鎌倉検定試験1級) 御霊神社 の 面掛行列 の面は、明和5年銘(1769年)の10種類の面で、 面掛行列 は1976年(昭和51年)に神奈川県の無形民俗文化財に指定されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 毎年9月18日に行われる、坂ノ下の御霊神社例祭では、伎楽面や田楽面を付けた面掛十人衆が練り歩く面掛行列が行われるが、これは何にならってはじめられたものか。 (第2回鎌倉検定試験2級) 鶴岡八幡宮祭礼行列 (面掛行列) 上の図は、 東京国立博物館 所蔵の 「鶴岡八幡宮祭礼行列之図」 。 御霊神社 の 面掛行列 は、 鶴岡八幡宮 の放生会の面掛行列に倣ったものと伝えられています。 円覚寺洪鐘祭祭礼行列 かつては、山ノ内の 八雲神社の祭礼 行列にも面掛行列があったようです。 上の図は円覚寺洪鐘祭絵巻。 60年に一度行われるという 洪鐘祭 の祭礼行列には、毎回、面掛行列が加わっていました。 1840年(天保11年)の祭礼行列では、 八雲神社 から天保11年銘のある面を借りているようです。 この面は、 御霊神社 の面掛行列の面を模したもので、洪鐘祭のために約40年振りに作り替えられたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 毎年9月18日に御霊神社例祭で行われる面掛行列で、坂ノ下町内を練り歩く面掛十人衆のうち、七福神に含まれるのは何か。 (第4回鎌倉検定試験2級) 御霊神社 の 福禄寿 は、面掛行列の八番面「福禄」にちなむもの。 鎌倉江ノ島七福神 の一つです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

日向の彼岸花MAP

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臨時観光案内所は、日向地区と洗水地区に臨時観光案内所が設置されます。 ○設置日 9月21日(土)・22日(日祝)・23日(月祝) 28日(土)・29日(日) ○設置時間 9:30~15:00 ※ 開花が遅れているため、14日~16日の設置は中止され、28日(土)・29日(日)に変更されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ バス時刻表 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大山・日向MAP ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉のヒガンバナ

百六つ義明公~衣笠城で討死した三浦義明:鎌倉検定~

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材木座の来迎寺はもともと源頼朝が衣笠城主〔  三浦義明  〕の菩提を弔うために建立した寺であった。戦死した〔  三浦義明  〕は 17 回忌まで生きたものとみなすように頼朝が伝えたため「〔  百六つ義明  〕公」とも呼ばれた。 (第11回鎌倉検定試験1級) 衣笠城址 三浦義明は、三浦半島に拠を置いた三浦一族の総帥。 1180年(治承4年)、 源頼朝 が 挙兵 すると、義明は頼朝に味方しますが、 畠山重忠 らに衣笠城を攻められ討死しました。 来迎寺 材木座の 来迎寺 は、1194年(建久5年)に頼朝が義明の菩提を弔うために建立した能蔵寺を始まりとしています。 三浦義明と多々良重春の墓 (来迎寺) 多々良重春は義明の孫で、 畠山重忠 との 小坪合戦 で討死しました。 満昌寺 (横須賀) 能蔵寺が建てられたのと同じ年、頼朝は義明の本拠地にも、義明を供養するための 満昌寺 を建立しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~小坪・衣笠合戦~ 1180年(治承4年)8月22日、 三浦一族 は、 源頼朝 を応援するため三浦を発ち、23日には酒匂川まで進軍します。 しかし、折からの雨で酒匂川を渡ることができず、 石橋山の戦い に間に合うことができませんでした。 翌8月24日、頼朝の敗戦を知った三浦軍は、仕方なく帰路につきます。 しかし、その途中の 由比ヶ浜 で畠山重忠軍に遭遇して合戦となってしまいます(小坪合戦)。 この合戦で、三浦義明の孫多々良重春が討死しています。 一方の畠山軍も多数の被害を受けました。 8月26日、 畠山重忠 は、「平家の重恩に報いるため」と「由比ヶ浜の雪辱のため」に、三浦軍を攻撃します。 このとき、 河越重頼 と 江戸重長 に協力を要請しています。 三浦一族は、 衣笠城 に立て籠もり、 東木戸(大手口)は、 三浦義澄 ・ 佐原義連 西木戸は、 和田義盛 ・金田頼次 中陣は、長柄義景・大多和義久 が配置されます。 そして、 河越重頼 ら数千騎が攻めてきました。 義澄らもよく戦いますが、 由比ヶ浜 での合戦の疲れもありましたし、矢も不足してきたので城を捨てることにします。 しかし、三浦義明は、 「源家累代