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三浦義澄の墓~横須賀市:薬王寺跡~

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三浦義澄の墓 (薬王寺跡) 三浦義澄 は、 源頼朝 の挙兵を援助した武将。 1192年(建久3年)、 鶴岡八幡宮 で行われた頼朝の 征夷大将軍 の辞令交付で、辞令を受け取ったのは義澄でした。 1199年(建久10年)、頼朝が亡くなって 13人の合議制 がしかれると義澄もその一人に加わりますが、1200年(正治2年)1月23日死去(享年74)。 薬王寺跡の石塔が 義澄の墓 と伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源義平の正室・祥寿姫に恋文を送った源頼朝

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祥寿姫は、 源頼朝 の異母兄・ 源義平 の正室。 1160年(平治2年)1月に義平が六条河原で処刑されたことで未亡人となっていましたが・・・ 1182年(寿永元年)7月頃になると、頼朝は伏見広綱に命じて祥寿姫に恋文を送っています。 しかし、返事がありません。 そこで、父の新田義重にそのことを話してみると・・・ 義重は政子の嫉妬を恐れて、祥寿姫を師六郎という者に嫁がせてしまったのだとか。 『吾妻鏡』の7月14日条には、義重が頼朝に嫌われてしまった事が記録されています。 一説には、源氏の一流である新田氏が頼朝から冷遇されたのは、祥寿姫の件が原因ともいわれているようです。 光照寺 (逗子市) 光照寺 は、祥寿姫の夫だった源義平の菩提寺 2022年の大河ドラマ

工藤祐経に怪我をさせて逃げた佐々木盛綱の子信実

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『吾妻鏡』によると・・・ 1190年(建久元年)7月20日、御所で催された双六の会での事。 頼朝 の相手をしていた 佐々木盛綱 の脇には子の信実(15歳)がいました。 そこへ 工藤祐経 がやってきて、座る場所がないので信実を抱えてどかしてしまいました。 顔色を変えて退室した信実は、小石を持ち帰り祐経の額に投げつけて、流血事件を起こしてしまいます。 その血が水干に流れおちたことから頼朝が激怒すると、信実はその場を逃げてしまいます・・・ 翌日、 頼朝 は 盛綱 に捕えてくるよう命じますが、信実は出家して逃亡したため勘当したと述べます。 すると、頼朝は、信実はまだ二十歳前の若者だが、祐経がどう思っているか分からないから、早く謝罪するように命じます。 しかし、 盛綱 は、信実の罪については認めましたが、 「盛綱が父として謝罪するのは、武士としての本文ではない」 と主張。 仕方なく、祐経のところへ藤原邦道を使いに出して、 「佐々木盛綱は、すでに信実を勘当したので、今後は遺恨のないように」 と伝えさせると、 祐経 は、 「今回の件は、信実に道理があるので遺恨はありません。 盛綱に対しても異心はありません」 と返答したのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 勘当された信実は、のちに許され、1221年(承久3年)の 承久の乱 では、北陸道の大将軍として出陣して活躍。 その功績から備中国の守護に任命されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ