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11月 26, 2023の投稿を表示しています

紫式部が参拝したという鹿蒜神社~越前下向~

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鹿蒜神社 (かひるじんじゃ)は福井県の南越前町今庄にある社。 996年(長徳2年)、越前国司となった父の 藤原為時 とともに越前国府(武生)へ向かう 紫式部 が参拝したといわれています。 藤原為時 と 紫式部 は、 逢坂の関 を越えて大津に入り、琵琶湖を渡って 塩津浜 に上陸。 塩津山(深坂峠)を越えて越前国の敦賀に入り、 木ノ芽峠 を越えて鹿蒜郷に至ったのだと伝えられています。 鹿蒜神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

富士山の雪解け水が湧き出す柿田川公園は泉頭城跡

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静岡県駿東郡清水町を流れる柿田川は、富士山の雨や雪解け水が三島溶岩流にしみ込み、その先端から湧き出している地下水を源泉としている川。 現在は柿田川公園として整備されていますが、戦国時代には泉頭城(いずみかしらじょう)がありました。 小田原城 の 北条氏康 が甲斐国の 武田信玄 の侵攻に備えて築いた城で、武田氏滅亡後は 駿府城 の 徳川家康 に備えるための前線基地として機能。 豊臣秀吉の 小田原征伐 によって北条氏が滅びると廃城となりましたが、 徳川家康 は新たな城を築き隠居所とする計画を立てていたのだとか。 しかし、その計画はなくなり 駿府城 を隠居所としたようです。 柿田川公園

方広寺の大仏と梵鐘~徳川家康と豊臣秀頼~

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方広寺 は、1595年(文禄4年)、豊臣秀吉が造立した 東大寺の大仏 に代わる大仏を安置するために建てられた寺。 大仏は木造で 東大寺の大仏 より高いものだったが、慶長大地震で大破。 1612年(慶長17年)、豊臣秀頼によって二代目の大仏が鋳造されるが、1662年(寛文2年)の寛文近江・若狭地震により損壊。 その後も三代目・四代目の大仏が造立されたが焼失。 現在は本堂・大黒天堂・大鐘楼が残されている。 梵鐘 は、豊臣秀頼が1614年(慶長19年)に鋳造させたものだが・・・ 徳川家康 は、銘文中の「国家安康」には「家康の名を2つに分断」し、「君臣豊楽」には「豊臣を君主として楽しむ」という下心が隠されていて、徳川家に対する呪いが込められていると指摘。 この問題が大坂の陣へと繋がっていく。 方広寺

紫式部の歌~おいつしま・・・琵琶湖沖島~

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「おいつしま 守りの神や いますらん 波もさわがぬ わらわえの浦」 越前国 から帰京する 紫式部 がこの地を通ったときに 沖島 を望んで詠んだとされる歌。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆