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源頼朝の挙兵!その4~山木館襲撃の前日~

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『吾妻鏡』によると、 治承4年8月16日、山木館襲撃の前日は一日中雨でした。 佐々木四兄弟( 定綱 ・ 経高 ・ 盛綱 ・ 高綱 )には、この日に到着するよう言ってありましたが、未だに到着していません。 頼朝 は、人数が集まらないので、17日の合戦を躊躇していたといいます。 しかし、日延べするにしても・・・ 18日は、幼児のころから観音さまを祀って祈る日となっていますので、合戦はできません。 19日になれば、密事が世間にばれてしまうでしょう。 そして、佐々木四兄弟は、平家の家人 渋谷重国 に面倒をみてもらっているので、彼らに密事を漏らしたことを後悔したのだとか・・・。 清水寺 頼朝は法華経の信者。 清水寺 から賜った観音像を守り本尊としていたのだといいます。 📎 観音信者だった源頼朝 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝の召集を拒否した波多野義常と山内経俊・・・

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1180年(治承4年)6月19日、京都の 三善康信 が 伊豆 の 源頼朝 に伝えてきたのは、「平家が全国の源氏を討伐する」という内容でした。 頼朝は、4月27日に以仁王の発した 平家打倒の令旨 を受け取っていましたが、なかなか挙兵を決意することができなかったようです。 しかし、 三善康信 からの報告で、ようやく挙兵に向けて行動を開始しました。 6月24日、頼朝は源氏累代の家人に書状をしたためて 安達盛長 を遣わし、7月10日、盛長からの報告を受けています。 その内容は・・・ 「相模国には召集に従うものが多くいる。 ただ、波多野義常と山内経俊は、召集に従わないばかりか、暴言を吐く始末」 というものだったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 波多野義常は、相模国波多野荘の武将。 父の義通は、 源義朝 に仕えて 保元・平治の乱 で活躍。 義朝の次男・ 朝長 (頼朝の異母兄)は、義通の妹が産んだのだと伝えられています。 『吾妻鏡』によると・・・ 頼朝の招集を断った波多野義常は、10月17日、追手が差し向けられると 松田郷 で自刃。 波多野城址 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 山内経俊 は、相模国鎌倉郡山内荘の武将。 父の俊通は 源義朝 に仕え、母の 山内尼 は 源頼朝 の乳母でした。 頼朝の招集に暴言を吐いた山内経俊はどうなったか・・・ 『吾妻鏡』によると・・・ 富士川の戦い 後の10月23日に降伏。 山内荘 は没収され、 土肥実平 に預けられました。 11月26日、頼朝は経俊を斬罪に処すよう命じますが、母の 山内尼の哀訴 で助命されています。 明月院 北鎌倉山ノ内の 明月院 は、 山内経俊 が父・俊通の菩提を弔うために建てた明月庵を前身としています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝の挙兵!その3~佐々木定綱が大庭景親の密事を報告~

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『吾妻鏡』によると・・・ 治承4年8月10日、 大庭景親 から「源頼朝討伐の密事」を聞いた渋谷荘の佐々木秀義が、その話を 源頼朝 に伝えるため、嫡男 定綱 を遣わします。 11日、 定綱 は頼朝のもとに到着して景親の密事を報告し、14日朝には、甲冑を用意するため、渋谷荘へ帰りました。 このとき頼朝は、定綱に「16日には戻って来るように」と伝えるとともに、渋谷重国に対して手紙を書いています。 この間、頼朝は、 岡崎義実 に17日より前に 土肥実平 を伴って参陣するよう使者を送っています。 早川城址 (綾瀬市) 早川城 は渋谷重国の居城。 重国は、1159年(平治元年)の 平治の乱 で 源義朝 に味方して敗れた近江源氏の佐々木秀義が、子らを連れて 奥州平泉 の 藤原秀衡 を頼るため渋谷荘を通りかかったときに、それを引き止め、以後、約20年間にわたり庇護していました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉桜情報!ソメイヨシノ開花予想2022/01/27

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鎌倉大仏 本日(1月27日)、「ウェザーマップ」と「日本気象協会」から2022年のソメイヨシノの開花予想が発表されました。 今年は「平年並み」。 ウェザーマップの予想は・・・ 東京:3月23日 日本気象協会の予想は・・・ 東京:3月23日 横浜:3月24日 となっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鎌倉原産の桜~ (京都で人気を集めた鎌倉桜)

源実朝の首と七騎谷の伝説~鎌倉:龍寳寺~

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1219年(承久元年)1月27日、三代将軍 源実朝 は、 鶴岡八幡宮 で行われた右大臣拝賀の式に出席し、その帰りに甥の 公暁 によって暗殺されてしまいます。 実朝 の首を持った 公暁 は、 鶴岡八幡宮 の裏山を越えて 三浦義村 邸に向かいますが、義村によって差し向けられた 長尾定景 によって討たれました。 龍寳寺 龍寳寺 には 源実朝 の位牌が安置されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~七騎谷の伝説~ 龍寳寺 のある谷は、「七騎谷」と呼ばれています。 かつては深い谷で人が入ることは希であったといいます。 伝えられている話では、 公暁 が持っていた 実朝 の首を、七騎の武士が持って逃げ、この谷に隠れて追手に捕まるのを逃れたのだといいます。 その後、この谷は「七騎谷」と呼ばれるようになったということです。 ~実朝の首の行方~ 『吾妻鏡』によれば、 実朝 は 勝長寿院 に埋葬されますが、首がないため髪の毛を代わりに納めたと記されています。 そして・・・ 秦野市には 「源実朝公御首塚」 があります。 長尾定景とともに 公暁 の追討を命ぜられた武常晴は、実朝の首を拾い秦野の地に葬ったと伝えられています。 この「武常晴」の伝説と「七騎の武士」の伝説とには何らかの関係があるのでしょうか・・・? 源実朝の五輪塔 (秦野市) 龍寳寺 https://www.yoritomo-japan.com/page140ryuhoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ