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12月 4, 2016の投稿を表示しています

源義経の最期と奥州征伐

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1187年(文治3年)10月29日、北方の王者 藤原秀衡 が亡くなりました。 秀衡は、奥州藤原氏の三代当主。 秀衡 は、 源頼朝 に追われ平泉に逃れてきた 源義経 を庇護していました。 ☆義経自刃☆ 義経 が平泉に下ったのは1187年(文治3年)の春ごろと考えられているようです。 それから間もなく、 秀衡 が亡くなり、奥州藤原氏の家督は、次男の泰衡へと引き継がれました。 秀衡 は「義経を主君として、頼朝の攻撃に供えるように」と遺言していたといいますが・・・ 頼朝の圧力に屈した泰衡は、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の 衣川館 を攻め、自刃に追い込んでしまいます。 高館義経堂 (平泉町) 義経が最期を迎えた衣川館跡。 1683年(天和3年)、仙台藩主・伊達綱村によって館跡に 義経堂 が建てられ、義経の木像が安置されました。 1689年(元禄2年)5月13日、この地を訪れた松尾芭蕉は「夏草や 兵共が 夢の跡」と詠んでいます。 ☆奥州征伐☆ 1189年(文治5年)7月19日、頼朝は、奥州の藤原泰衡を征伐するため、 畠山重忠 を先陣に鎌倉を出発します。 8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山を撃破。 その報を受けた泰衡は、 平泉館 を焼き払い逃亡しています。 そして・・・ 9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。 ☆奥州藤原氏の栄華☆ 中尊寺 中尊寺は慈覚大師円仁が開いたと伝えられ、奥州藤原氏初代の清衡が堂塔を整えました。 毛越寺 毛越寺は、慈覚大師円仁が開き、奥州藤原氏二代の基衡、三代の秀衡の時代に伽藍が整えられました。 観自在王院跡 観自在王院は、奥州藤原氏二代の基衡の妻が創建しました。 無量光院跡 無量光院は、奥州藤原氏三代の秀衡の創建。 宇治平等院を模した建物だったと伝えられています。 柳之御所遺跡 柳之御所遺跡は、泰衡が焼き払った平泉館の跡と考えられています。 達谷窟毘沙門堂 奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、9月28日、平泉を発ち、鎌倉への帰路につきます。 その途中に立ち寄ったのが達谷窟毘沙門堂。 ・・・・・・・・・・・

セレクション源頼朝!~源平合戦と義経追放~

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1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵。 源平の合戦がここから始まるわけですが、当時は天候不順が続いていました。 1182年(寿永元年)には大飢饉に見舞われています。 源氏も平氏も食糧補給が困難ですので、しばらく休戦状態が続いていましたが・・・ 1183年(寿永2年)、木曽義仲が挙兵。 これをきっかけに源平の戦いが再開しました。 ☆☆☆ 1184年(寿永3年)1月、木曽義仲滅亡。 同年2月、一の谷の戦いで平家軍敗走。 1185年(寿永4年)2月、屋島の戦いで平家軍敗走。 同年3月、壇ノ浦で平家滅亡。 ☆☆☆ 1185年(元暦2年)5月7日、源義経が壇ノ浦で捕えた平宗盛父子を護送して鎌倉へと向かいますが・・・ 頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。 頼朝の許可なく朝廷の官職を受けたことも一つの理由ですが、梶原景時をはじめとする多くの御家人から義経への不満が届いていたようです。 翌月、義経は再び平宗盛父子を護送して京都へ戻りました。 その後、後白河法皇より「頼朝追討の院宣」が下されますが失敗し、逃亡の末、奥州平泉の藤原秀衡を頼ることとなります。 六波羅蜜寺 (京都) 1183年(寿永2年)、木曽義仲が「倶利加羅峠の戦い」で平氏軍を破り、上洛を果たします。 義仲に攻められた平氏は、六波羅を焼き払って京を落ち。 六波羅蜜寺もその兵火によって焼失しています。 三十三間堂 (京都) 三十三間堂は、後白河上皇が創建した蓮華王院の本堂。 都に入った義仲はやがて後白河法皇と対立。 法皇は源頼朝に上洛を促します。 頼朝の上洛を恐れる義仲は、1183年(寿永2年)11月、法住寺殿の焼き討ちし、12月には頼朝追討の院宣を強要、翌年1月には征東大将軍に任命されました。 宇治川先陣の碑 1184年(寿永3年)1月、頼朝は弟の範頼・義経に義仲追討を命じます。 範頼が瀬田を、義経が宇治を攻撃しました。 敗走した義仲は近江国粟津で最期を遂げています。 教恩寺 教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、一の谷の戦いで捕えられた平重衡が信仰していたのだと伝えられています。 補陀洛寺 壇ノ浦の戦いで捕えられた平宗盛が持っていたとされる「平家の赤旗」が保管されています。

鎌倉:除夜の鐘が撞ける寺

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鎌倉で 「除夜の鐘」 が撞ける寺をご紹介します。 各寺社に関する情報は写真をクリック。 円覚寺の塔頭正続院 円覚寺 では塔頭 正続院 の鐘をつくことができます。 先着400名。 正続院 (しょうぞくいん)は、 円覚寺 の開山 無学祖元 (仏光国師)の塔所(開山塔)です。 中心となる建物は、鎌倉で唯一の国宝建築物の 舎利殿 。 源実朝 が宋より請来した仏舎利を納めています。 建長寺 撞くことができるのは 国宝の梵鐘 (写真)ではありませんが、道場横の鐘を撞くことができます。 11時45分から順次。 東慶寺 先着108名:「あかつきの鐘」は全員。 材木座の 補陀洛寺 から移された鐘です。 分捕り品となって土中に埋められた鐘を、のちに農民が掘り出したものと伝えられています。 鐘楼 天井には、龍が描かれています。 ※「あかつきの鐘」は「除夜の鐘」の後につかれます。 浄智寺 先着108名:23時から整理券配布 浄智寺の山門 は鎌倉でも珍しい鐘楼門。 楼上の梵鐘は、暦応3年(1340年)の銘のあるもので、県の重要文化財に指定されています。 長谷寺 先着108組:22時30分頃から整理券配布 現在鐘楼に吊されている梵鐘は、新たに鋳造されたものですが、宝物館に安置されている梵鐘は 鎌倉四大古鐘 の一つです。 銘文には、1264年(文永元年)甲子7月15日新長谷寺とあります。 浄光明寺 1時終了 不動堂に安置されている秘仏「不動明王像」が公開されます。 源頼朝 の挙兵の伝説が残る不動明王像です。 本覚寺 開山の日出が上総布教の際、木更津八幡宮別当泉蔵寺で八剣と論争した末に勝利し、記念として譲り受けたもの。 大船観音寺 23時から先着順・整理券配布 龍寳寺 先着108組:23時頃から整理券配布 杉本寺 鎌倉最古の寺 瑞泉寺 光明寺 浄土宗関東総本山 薬王寺 徳川家ゆかりの寺 青蓮寺 鎖大師の寺 満福寺 源義経ゆかりの寺 妙本寺 先着108名 ※例年の除夜の鐘の撞ける寺をご紹介しています(撞

セレクション源頼朝!~東国の整備~

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鶴岡八幡宮 1180年(治承4年)10月6日、畠山重忠を先陣として相模国に到着した源頼朝は、翌日には由比郷の鶴岡八幡宮(由比若宮)を遙拝します。 そして、12日には、 鶴岡八幡宮 を小林郷北山に遷しました。 大倉幕府跡碑 御所の造営は10月9日より大庭景義の奉行によって進められ、12月12日、頼朝は新御所に移ったと伝えられています。 秋戸郷跡 (熱海市) 10月10日、秋戸郷に隠れ潜んでいた北条政子が稲瀬川に到着し、その日は付近の民家に泊まって、翌11日、鎌倉に入りました。 平家越の碑 10月20日、平家軍を戦わずして敗走させます。 富士川の戦いのあった翌11月には、常陸の佐竹秀義を攻め、さらに、足利氏と新田氏を帰属させて、関東を頼朝の支配下に入れました。 佐竹氏征伐後、鎌倉に戻った頼朝は、軍事・警察を担う侍所を設置して、和田義盛を別当としています。 対面石 (駿東郡清水町) 富士川の戦いで平家を敗走させた頼朝は、10月21日、黄瀬川で奥州から駆けつけた義経と対面します。 若宮大路 1182年(養和2年)、若宮大路の造営。 若宮大路は鶴岡八幡宮の参道。 鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を模して造営された参道です。 段葛 中央の一段高い段葛も若宮大路と同時期に造営されたものと考えられています。 江の島弁財天 1182年(養和2年)、奥州平泉の藤原秀衡調伏のため、江の島に弁財天を勧請。 1181年(治承5年)閏2月、平清盛が死去。 清盛の後を継いだ平宗盛は、奥州平泉の藤原秀衡を陸奥守に任じ、頼朝追討令を出していました。 太刀洗水 1183年(寿永2年)12月22日、上総広常を謀叛の疑いで暗殺。 ・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・