源義経の最期と奥州征伐
1187年(文治3年)10月29日、北方の王者 藤原秀衡 が亡くなりました。 秀衡は、奥州藤原氏の三代当主。 秀衡 は、 源頼朝 に追われ平泉に逃れてきた 源義経 を庇護していました。 ☆義経自刃☆ 義経 が平泉に下ったのは1187年(文治3年)の春ごろと考えられているようです。 それから間もなく、 秀衡 が亡くなり、奥州藤原氏の家督は、次男の泰衡へと引き継がれました。 秀衡 は「義経を主君として、頼朝の攻撃に供えるように」と遺言していたといいますが・・・ 頼朝の圧力に屈した泰衡は、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の 衣川館 を攻め、自刃に追い込んでしまいます。 高館義経堂 (平泉町) 義経が最期を迎えた衣川館跡。 1683年(天和3年)、仙台藩主・伊達綱村によって館跡に 義経堂 が建てられ、義経の木像が安置されました。 1689年(元禄2年)5月13日、この地を訪れた松尾芭蕉は「夏草や 兵共が 夢の跡」と詠んでいます。 ☆奥州征伐☆ 1189年(文治5年)7月19日、頼朝は、奥州の藤原泰衡を征伐するため、 畠山重忠 を先陣に鎌倉を出発します。 8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山を撃破。 その報を受けた泰衡は、 平泉館 を焼き払い逃亡しています。 そして・・・ 9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。 ☆奥州藤原氏の栄華☆ 中尊寺 中尊寺は慈覚大師円仁が開いたと伝えられ、奥州藤原氏初代の清衡が堂塔を整えました。 毛越寺 毛越寺は、慈覚大師円仁が開き、奥州藤原氏二代の基衡、三代の秀衡の時代に伽藍が整えられました。 観自在王院跡 観自在王院は、奥州藤原氏二代の基衡の妻が創建しました。 無量光院跡 無量光院は、奥州藤原氏三代の秀衡の創建。 宇治平等院を模した建物だったと伝えられています。 柳之御所遺跡 柳之御所遺跡は、泰衡が焼き払った平泉館の跡と考えられています。 達谷窟毘沙門堂 奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、9月28日、平泉を発ち、鎌倉への帰路につきます。 その途中に立ち寄ったのが達谷窟毘沙門堂。 ・・・・・・・・・・・