別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年4月21日木曜日

日朗の土牢と光則寺

1260年(文応元年)、日蓮は、長谷にあった宿谷光則の屋敷を訪れて、政治や宗教のあるべき姿を著した『立正安国論』を北条時頼に渡してくれるよう光則に依頼します。

『立正安国論』は光則によって時頼に提出されますが、日蓮の献策は受け入れられませんでした。

その後、多くの弾圧を受けながらも、世の中の正道を説き続けた日蓮は、1271年(文永8年)9月12日逮捕され佐渡流罪となります。

その時、弟子の日朗もともに捕らえられ光則がその監視の任に当たることになりました。

土牢
捕らえられた日朗は、
光則寺裏山に残されている土牢に幽閉されたと伝えられています。

土牢御書碑
土牢の前には、
日蓮が、幽閉されている日朗に書いた手紙の碑が建てられています。
佐渡流罪となった日蓮は、
弟子の日朗の身を案じて手紙を書いたといいます。
その手紙が『土牢御書』と呼ばれているものです。


『土牢御書』には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれています。
日朗は、日蓮の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたといいます。

1274年(文永11年)2月14日、執権北条時宗は日蓮の赦免を決定します。赦免状を携えて佐渡に渡ったのも日朗でした。

日蓮が赦免された年、日朗の監視役をしていた宿谷光則が自邸を提供し寺としています。

それが現在の光則寺です。開山は日朗です。
光則は、弟子の身を案ずる日蓮に感動し帰依したと伝わっています。


光則寺
カイドウの寺として知られ、
本堂前のカイドウの古木は鎌倉市の天然記念物に指定されています。


日朗は、のちに日蓮の六老僧の一人に数えられ、池上本門寺の基礎を築いたといわれています。

その遺言によって松葉ヶ谷で荼毘にふされ、お猿畑に葬られています。


安国論寺の荼毘所(左)と法性寺の廟所(右)






光則寺
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鎌倉手帳
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