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源頼朝が頼んだ石清水八幡宮千日間の参籠~園城寺の日胤~

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『吾妻鏡』によると・・・ 日胤は、 園城寺 (三井寺)の僧で 千葉常胤 の子。 日胤は、 伊豆 に流されていた 源頼朝 に頼まれて千日間の 石清水八幡宮 参籠をしていましたが、六百日目に宝殿から金の兜を賜わる夢をみました。 「所願が成就する証拠だ」と思っていると、翌朝、以仁王が園城寺に入ったことを耳にします。 日胤は弟子の日恵にあとを頼んで以仁王のもとに参陣しますが・・・ 1180年(治承4年)5月26日、以仁王とともに光明山の鳥居の前で平家軍に討ち 取られてしまいました。 その後、日恵は千日の参籠を終えて、1181年(治承5年)5月8日に鎌倉の頼朝に報告しています。 園城寺 園城寺 は、天台寺門宗の総本山。 源頼義 ・ 新羅三郎義光 をはじめとする源氏ゆかりの寺。 鶴岡八幡宮 の初代別当は、園城寺の円暁。 石清水八幡宮 (京都) 石清水八幡宮 は源氏の氏神。 武神と言われた 源義家 は、石清水八幡宮の神前で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれました。 源頼朝が武家の都の中心に据えた 鶴岡八幡宮 は、石清水八幡宮を勧請して創建された社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 緊急事態宣言が発出されています。 旅行計画は新型コロナウイルス感染症が収まってから・・・ 鎌倉との繋がりを求めて!

疫病の流行と祇園さまのお告げと鬼気祭

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1230年(寛喜2年)、天候不順による大凶作が全国を襲います。 翌1231年(寛喜3年)には大飢餓となり疫病が大流行しています。 飢饉は、1239年頃まで続いたものと考えられ、「天下の人種三分を一失す」といわれほどで、鎌倉時代最大規模の災害となったようです。 📎寛喜の飢饉 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1231年(寛喜3年)4月、ある僧が祇園社( 八坂神社 )から受けた夢のお告げを洛中で発表したのだといいます。 5月4日、四代将軍 九条頼経 の父道家は、その内容を鎌倉へ送ってきました。 1人当たり五文か三文を献じて般若心経を読誦し、巽(南東)で鬼気祭を催せば流行病や餓死は収まる。 悪性の流行病は、6月18日までに発生するから、この御札を懸けるように。 □ 医王源□ 急々如律令 □□□ 山柘急々如律令 これを信じれば人民安穏・天下泰平である。 . その夜、御所では 四角四境の鬼気祭 を行なったのだとか。 5月17日には全国で伝染病が流行していることから、 鶴岡八幡宮 で天下泰平国土豊稔の読経が行われています。 八坂神社 八坂神社 は、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としていたことから、祇園社と呼ばれていました。 祭礼の 祇園祭 は、全国に流行した疫病を鎮めるために行われた「祇園御霊会」を始まりとしていると伝えられています。 新型コロナウイルスの影響によるイベント・催事の開催の有無について (京都観光Navi) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 緊急事態宣言が発出されています。 旅行計画は新型コロナウイルス感染症が収まってから・・・

源頼朝に愛されていた北条泰時

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北条泰時の墓 (鎌倉:常楽寺) 『吾妻鏡』によると・・・ 1194年(建久5年)2月2日、幕府で 北条義時 の嫡子泰時の元服の儀が執り行われました。 泰時の幼名は金剛。 源頼朝の前で元服した金剛は、「太郎頼時」と名付けられています。 この式で、 三浦義澄 の孫娘との婚約も決められ、1202年(建仁2年)8月23日、三浦義村の娘と結婚しています。 頼時から泰時に改名したのが、何時なのか、何故なのかはわかりません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~頼朝からの褒美~ 『吾妻鏡』によると・・・ 1192年(建久3年)5月26日、金剛は歩いて遊びに出かけました。 すると多賀重行がその前を下馬もせず通り過ぎたのだといいます。 その話を聞いた頼朝は、重行を咎めますが、重行はそのような非礼に覚えがないと弁明します。 金剛に聞いても、そのような事なかったと答えます。 しかし、頼朝は重行は嘘をつき、金剛は重行をかばっていると判断。 重行の所領を没収する一方で、慈悲深い金剛には刀を与えたのだとか。 金剛(泰時)は、のちに起こる 承久の乱 で頼朝から賜った刀を帯びていたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』よれば、 承久の乱 に勝利できたのは「半分以上は泰時の手柄によるもの」と北条政子は語っています。 2022年の大河は北条義時!

伊豆の国市:西琳寺~源頼政の妻菖蒲御前ゆかりの寺~

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西琳寺は、弘法大師が草庵を結んだという地に建てられた寺。 弘法大師が刻んだ弥勒菩薩にちなんで弥勒寺と名付けられ、弥勒菩薩の伝説から山号を西琳山と称した真言宗の寺院でしたが、1478年(文明10年)、 本願寺 八世の蓮如の教化によって浄土真宗に改宗され、西琳山弥勒寺から弥勒山西琳寺と改められました。 弥勒堂 本尊の弥勒菩薩は弘法大師が高さ約3メートルの自然石に刻んだもの。 源頼政 の側室菖蒲御前の念持仏であったと伝えられています。 菖蒲御前の供養塔 伊豆国の古奈で生まれたという菖蒲御前。 京都で鳥羽上皇に仕え、院中一の美女だったのだとか。 のちに 源頼政 の妻となりますが・・・ 頼政が以仁王とともに平家打倒の挙兵して 平等院 で討死にすると、郷里に戻り、弥勒堂の下に草庵を結んで頼政の菩提を弔ったのだといいいます。

京都:清水寺

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2015年の写真です。 仁王門 西門 三重塔 随求堂 景清爪形観音 濡れ手観音 子安塔 弁慶の錫杖と高下駄 (本堂) 朝倉堂 京都タワー 本堂 清水の舞台 音羽の滝 地主神社 清水の舞台 清水の舞台 清水の舞台 アテルイ・モレの碑 春日社 首振地蔵 ・・・・・・・・・・・ 清水寺 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!