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8月 29, 2021の投稿を表示しています

2021小出川彼岸花まつり

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藤沢市、寒川町、茅ヶ崎市を流れる小出川。 小出川沿いには約3㎞にわたって彼岸花が咲きます。 2021年の彼岸花まつりは9月25日(土)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉のヒガンバナ

特別展「鶴岡八幡宮の名刀-歴史に宿る武士の信仰-」~鶴岡ミュージアム~

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源頼朝 佩刀と伝えられる国宝『沃懸地杏葉螺鈿太刀』(いかけじぎょうようらでんたち)をはじめ、源頼義寄進と伝えられる国宝『朱漆弓』・国宝『沃懸地杏葉螺鈿平胡なぐい』(いかけじぎょうようらでんひらやなぐい)、源頼朝が 東大寺 の鎮守 手向山八幡宮 から贈られたという重要文化財の『菩薩面』などが公開されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月14日~16日 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

京都:烏寺と呼ばれる専定寺~熊谷直実の伝説~

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烏寺(専定寺) 1207年(建永2年)9月4日、専定という旅の僧が松の木陰で休んでいると・・・ 梢にとまった二羽の烏が・・・ 「今日は熊谷蓮生房が大往生の日だ。西方浄土へ導かれるのも念仏の功徳というものだろう」 と話して飛び去っていきました。 不思議に思った専定が熊谷蓮生房の庵を訪ねると、その日に蓮生房は亡くなっていたとのだといいます。 これが 専定寺 の起こりで、「烏寺」(からすでら)と呼ばれる由縁なのだとか。 熊谷直実の墓 (金戒光明寺) 熊谷蓮生房とは、 熊谷直実 のこと。 源平合戦で活躍しますが、 一の谷の戦い で我が子ほどの年齢の平敦盛の命を奪ったことに無常観を感じ、 金戒光明寺 で出家したのだと伝えられています。 『吾妻鏡』には、1208年(承元2年)9月14日未の刻(午後2時頃)に世を去ることを発表し、その予告どおり東山の麓で「端座合掌し、高声念仏を唱え」ながら死去したと記録されています。 直実と敦盛の一騎打ち (神戸市:須磨寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼家の悲劇~比企氏の乱の真相は・・・~

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『吾妻鏡』によれば・・・ 1203年(建仁3年)8月27日、二代将軍 源頼家 の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を 頼家 の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの 実朝 )に譲ることが発表されます。 これに反発したのは 比企能員 でした。 頼家 の乳母夫であり、一幡の外祖父である 能員 は、若狭局を通じて頼家に「 北条時政 を追討すべきだ」と伝えます。 頼家 は 能員 を呼んで、北条氏追討の許可を与えたといいます。 その密議を障子を隔てて聞いていた 北条政子 は、その事を 北条時政 に通報します。これを受けた時政は 大江広元 の支持をとりつけ、先手をうって 能員 を暗殺したのだといいます。 そして、政子の命によって、 頼家 の嫡子一幡の小御所が襲われます。立てこもっていた比企一族は滅亡し、一幡も焼け跡から発見されました(9月2日)。 この時、危篤状態だったという 頼家 は、奇跡的に快復し事件を知ると、 和田義盛 と 仁田忠常 に 時政 討伐を命じますが失敗に終わり(9月5日)、病気と政治不安を理由に出家しました(9月7日)。 9月29日、 頼家 は伊豆国 修禅寺 へ流され、翌1204年(元久元年)7月19日、その死が鎌倉にもたらされています。 源頼家 1199年(正治元年)、父 頼朝 の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられました。 1204年(元久元年)7月18日、伊豆国 修禅寺 で最期を遂げています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ しかし、 慈円の『愚管抄』によると・・・ 能員の暗殺について 「重病になった 頼家 は、長子一幡に家督を相続させようとしており、それによって能員が幕政の実権を握ろうとしていることを知った 時政 は、千幡(のちの 実朝 )こそ後継者だとして能員を呼び寄せ刺し殺した。」 一幡の館の襲撃について 「8月末に出家をし、大江広元邸で療養する 頼家 を監視させる一方で、一幡の館を襲撃し、立てこもっていた郎等はみな討たれた」 一幡の死について 「一幡は母とともに脱出したが、11月3日、北条氏の追手に捕らえられ刺殺された」 頼家について 「事件を知って驚いた 頼家 は、太刀を抜いて立

藤原泰衡の首~源頼朝の奥州征伐~

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奥州藤原氏 の最後の当主となった藤原泰衡。 その最期は哀れなものでした。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源頼朝 の征伐軍が 平泉 に逼ってくると、泰衡は 平泉館 を焼き、郎党の河田次郎の本拠・比内郡贄柵に逃げ込みます。 しかし、1189年(文治5年)9月3日、河田次郎に裏切られ殺害されてしまいました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月6日、河田次郎は、泰衡の首を頼朝のもとへ届けます。 河田次郎は褒美に預かれると思っていたのでしょうが・・・ 頼朝は、 梶原景時 に命じて河田次郎にこう伝えさせ、直ちに首を刎ねたのだそうです。 「お前のしたことは手柄のようにも思えるが、泰衡の命はすでに掌中にあったもので、他者の力を借りる必要はなかった。 にもかかわらず、代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪に値する・・・」 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ そして、泰衡の首は梟首されるのですが・・・ 頼朝は、前九年の役で、先祖の 源頼義 が安倍貞任の首を「釘で打ち付けて晒した」のと同じように、八寸釘で泰衡の首を打ち付け、晒し首にします。 泰衡の首は父祖が眠る 中尊寺金色堂 に葬られますが、頼朝を憚ってのことか、長い間、泰衡の弟忠衡のものと伝えらてきたようです。 しかし、1950年(昭和25年)の調査で、眉間と後頭に直径1.5センチメートルの小孔が18センチメートルの長さで頭蓋を貫通していることが判明し、忠衡ではなく泰衡のものであることが確認されたのだそうです。 参考までに、忠衡は義経保護を主張して泰衡と対立し、6月26日に誅殺されていました。 中尊寺金色堂 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ