莫煩悩~元寇と北条時宗と無学祖元~
1268年(文永5年)3月5日、 北条時宗 が第八代執権に就任します。 18歳のときでした。 この年の1月、日本には、蒙古(元)からの国書がもたらされています。 執権は北条政村でしたが、異国からの侵攻を受けるかもしれないという国難に対処するために、 得宗家 の 時宗 を執権とする人事が行われました。 (※そもそも、政村は 時宗 が成人するまでの間の中継ぎの執権でした。) ~禅に求めた不動心~ 時宗 は父 時頼 とともに 建長寺 の 蘭渓道隆 に帰依していました。 蘭渓道隆 が 建仁寺 に住持した後は、二世兀菴普寧、三世大休正念の教えを受けていたといいます。 しかし、兀菴は、 時頼 が死ぬと宋に帰国してしまいます。 そのときの理由は、「 時宗 はまだ幼年で誠志信敬の心がない」というものだったそうです。 三世の大休正念は、師となることを固辞したといいます。 そして、1278年(弘安元年)7月24日、 時宗 が師としていた 蘭渓道隆 が亡くなります。 師を失った 時宗 は、新たな師を宋の国に求めました。 迎えられたのが 無学祖元 。 来日した 無学祖元 は 建長寺 の五世となります。 建長寺 1253年(建長3年)、 北条時頼 によって創建されました。 ~無学祖元の臨刃偈(りんじんげ)~ 無学祖元 は、元の侵攻による難を避けて能仁寺にいましたが、やがてそこにも元の兵がやってきたといいます。 寺僧はみな逃げ出しますが、 無学祖元 はひとり僧堂に残っていました。 元兵は刀をかざして 無学祖元 を脅しますが、それに対して・・・ 「振りかざされた剣も、生死を超えた身には稲光のあいまに春風を斬るようなものだ」 といったのだといいます。 元兵は、「死をおそれぬ 無学祖元 の気迫におされ退散していった」という逸話が残されています。 ~莫煩悩~ 1281年(弘安4年)、日本は元軍による二度目の侵攻を避けられない情勢となります。 苦悩の 時宗 は、この年の正月、 無学祖元 を訪ねます。 すると、 無学祖元 は、紙片に 「莫煩悩」 (まくぼんのう)という三文字を書き、それを 時宗 に渡しました。 「迷うことなく信ずるところを行え」 という意味であったといいます。 「蒙