投稿

7月 24, 2011の投稿を表示しています

莫煩悩~元寇と北条時宗と無学祖元~

イメージ
1268年(文永5年)3月5日、 北条時宗 が第八代執権に就任します。 18歳のときでした。 この年の1月、日本には、蒙古(元)からの国書がもたらされています。 執権は北条政村でしたが、異国からの侵攻を受けるかもしれないという国難に対処するために、 得宗家 の 時宗 を執権とする人事が行われました。 (※そもそも、政村は 時宗 が成人するまでの間の中継ぎの執権でした。) ~禅に求めた不動心~ 時宗 は父 時頼 とともに 建長寺 の 蘭渓道隆 に帰依していました。 蘭渓道隆 が 建仁寺 に住持した後は、二世兀菴普寧、三世大休正念の教えを受けていたといいます。 しかし、兀菴は、 時頼 が死ぬと宋に帰国してしまいます。 そのときの理由は、「 時宗 はまだ幼年で誠志信敬の心がない」というものだったそうです。 三世の大休正念は、師となることを固辞したといいます。 そして、1278年(弘安元年)7月24日、 時宗 が師としていた 蘭渓道隆 が亡くなります。 師を失った 時宗 は、新たな師を宋の国に求めました。 迎えられたのが 無学祖元 。 来日した 無学祖元 は 建長寺 の五世となります。 建長寺 1253年(建長3年)、 北条時頼 によって創建されました。 ~無学祖元の臨刃偈(りんじんげ)~ 無学祖元 は、元の侵攻による難を避けて能仁寺にいましたが、やがてそこにも元の兵がやってきたといいます。 寺僧はみな逃げ出しますが、 無学祖元 はひとり僧堂に残っていました。 元兵は刀をかざして 無学祖元 を脅しますが、それに対して・・・ 「振りかざされた剣も、生死を超えた身には稲光のあいまに春風を斬るようなものだ」 といったのだといいます。 元兵は、「死をおそれぬ 無学祖元 の気迫におされ退散していった」という逸話が残されています。 ~莫煩悩~ 1281年(弘安4年)、日本は元軍による二度目の侵攻を避けられない情勢となります。 苦悩の 時宗 は、この年の正月、 無学祖元 を訪ねます。 すると、 無学祖元 は、紙片に 「莫煩悩」 (まくぼんのう)という三文字を書き、それを 時宗 に渡しました。 「迷うことなく信ずるところを行え」 という意味であったといいます。 「蒙

飢饉・天災と忍性の救済活動~極楽寺~

イメージ
鎌倉時代中期、 北条時頼 の時代は災害と飢饉の時代でした。 『吾妻鏡』は、1258年(正嘉2年)6月24日条で 「鎌倉の寒気はまるで冬天のようだ」 と記しています。 鎌倉は、冷害によって、 北条泰時 の時代に発生した 寛喜の飢饉 に続き、正嘉年間にも深刻な飢饉にみまわれます( 正嘉の飢饉 )。 この頃の鎌倉は、冷害だけではなく、暴風雨も相次ぎ、大地震も発生しています。 1260年(文応元年)、 日蓮 が 北条時頼 に提出した『立正安国論』には、 「天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち・・・・牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり」 と記されています。 翌年、幕府は、病人、孤児(みなしご)、死体を路上に捨てることを禁止しています。 しかし、こういった禁制にもかかわらず、路上には病人が捨てられていました。由比ヶ浜には、捨てられた病人を収容する「無常堂」という施設があったといいます。 ~叡尊の鎌倉下向~ そんな悲惨な状況の中の1262年(弘長2年)2月、真言律宗の叡尊が鎌倉に下向しました。 叡尊の鎌倉での活動をつづった『関東往還記』によると・・・ 5月1日、浜悲田と大仏悲田で貧民たちに食を施しています。 浜悲田を担当したのは、のちに 極楽寺 の開山となる 忍性 でした。 ※「悲田」というのは、病人・貧民・孤児などを収容する施設です。 叡尊は、7月に鎌倉を去っています。 清凉寺ヶ谷 (新清凉寺釈迦堂) 叡尊 ~忍性の救済活動~ 忍性 は 極楽寺 を拠点として、病人や貧民の救済事業にあたります(極楽寺が開かれたのは1267年(文永2年))。  茶を薬として調合するために使用したという 千服茶臼と製薬鉢 忍性が粥を施すために使用したという井戸。 忍性 によって開かれた 桑ヶ谷療養所 は、 北条時宗 の要請によって置かれました。 時宗 からは療養所の運営費用のために、土佐国(高知県)大忍荘が寄進されたといいます。 桑ヶ谷療養所跡碑 そして、 和賀江嶋 の管理と引き換えに関税を徴収する権利も与えられました。 これも福祉活動を任されたことに対する特権だったのでしょうか・・・。 和賀江嶋 忍性 は、病人や貧民の救済だけでなく、 極楽寺

笑い閻魔と運慶~北鎌倉:圓應寺~

イメージ
閻魔大王=地獄の主。 昔は、「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれる」と教えられたものです。 恐ろしいイメージがあります。 圓應寺 の本尊はその閻魔大王像です。 鎌倉時代のもので 運慶 作ともいわれています。 伝説によると・・・ 年老いた運慶は重病となり仮死状態になりました。 三途の川を渡った運慶は、 初七日の秦広王の裁判 14日目の初江王の裁判 21日目の宋帝王の裁判 28日目の五官王の裁判 を経て 35日目の閻魔大王の裁判を迎えました。 閻魔大王の裁判では、生前の行いによって天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道のうち、どこに生まれ変われるかが決定されます。 閻魔大王は運慶にこう言いました。 お前が娑婆でやさしい面相の仏像ばかり作るから、 亡者が地獄にやってきても腰抜けばかりでろくな奴がおらん。 もっと娑婆で悪人ばらを改心させてわしに手数をかけないようにしてもらいたい。 お前をもう一度娑婆に帰してやるから、 わしの姿に生き写しの閻魔王像を刻んで人間たちによく見せろ。 そうすれば、悪人が改心して人間社会が良くなるはずじゃ。 わかったらさっさと帰れ。 こうして娑婆に帰った 運慶 が彫ったのが、 圓應寺 の閻魔大王像だといいます。 生き返ることができて嬉しかった 運慶 は、この像を笑いながら彫ったので、像もどことなく笑っているように見えることから、「笑い閻魔」と呼ばれてきました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 圓應寺 には、閻魔大王像をはじめとする十王像や奪衣婆像などが安置されています。 かつては、 巨福呂坂 を越える人が多く立ち寄る寺だったそうです。 鎌倉には数多くの寺がありますが、これだけの仏像を間近に見ることのできる寺は珍しいかもしれません。 閻魔縁日 1月16日と8月16日は縁日です。 圓應寺 の閻魔大王は「子育て閻魔」とも呼ばれ、子の無事成長を祈願する参拝者も多くいます。 圓應寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138ennouji.htm

鎖大師開帳~青蓮寺~

イメージ
青蓮寺 では、8月16日の施餓鬼法要のときに「鎖大師」が開帳されます。 青蓮寺 は弘法大師(空海)の開山です。 「鎖大師」とは、本尊である弘法大師像のことをいいます。 鎖大師開帳 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/kusaridaisi.htm 鎖大師は、両足の関節が、鎖のような細工で自在に動かすことが出来るためそう呼ばれるようになりました。 裸形彫刻で、 鶴岡八幡宮 の裸弁才天( 鎌倉国宝館 に寄託)、 延命寺 の裸地蔵、 江ノ島 の裸弁財天ととも知られている仏像です。 もとは、 鶴岡八幡宮 の 等覚院 にありましたが、明治の神仏分離によって 鶴岡八幡宮 は仏像を手放します。 その後、 松源寺 (廃寺)に移され、 壽福寺 を経て、 青蓮寺 に安置されました。 伝説によると・・・ 松源寺 (廃寺)に移された鎖大師は、ひとりで 壽福寺 に行き、しばらく 壽福寺 に滞在していました。 しかし、 青蓮寺 の住職が「迎えに来るように」とのお告げを受けたことから、 青蓮寺 に移されたのだといいます。 本堂 江の島の道標 青蓮寺 は 江の島 参詣道の途中にある寺です。 http://okadosblog.blogspot.com/2010/11/blog-post_24.html 塔頭寶積院薬王寺 青蓮寺 https://www.yoritomo-japan.com/page139shorenji.htm

覚園寺の黒地蔵縁日

イメージ
覚園寺 の地蔵堂に祀られている地蔵菩薩立像は、「黒地蔵」と呼ばれ8月10日が縁日です。 縁日は、午前零時から行われています。 地獄では、罪人が猛火による「責め苦」にあうそうです。 覚園寺 の「黒地蔵」は、地獄で火に苦しんでいる者を見て、少しでも罪人の苦しみを和らげてあげようと、自らが獄卒(地獄の役人)となって火焚きを行いました。 「地獄の火を小さくしてあげた」ということなのでしょうか・・・。 そして、火を焚くうちに、その全身は黒く焦げてしまったといいます。 そのため、「黒地蔵」とか「火焚き地蔵」と呼ばれるようになったと伝えられています。 黒地蔵は、 鎌倉二十四地蔵 の一つです。 黒地蔵の周りには、「千体地蔵」が安置されています。 黒地蔵に願掛けをして、その身代わりに千体地蔵の中の一体を借り受けて持ち帰り、朝夕祈り続けると願いが叶えられると伝えられています。 そして、願いがかなったら、お借りした一体を供養して地蔵堂に納めるという風習となっているようです。 また、亡くなった人の供養を一心に行うと、千体地蔵のうちの一体が、亡き人の面影となって現れるとも伝えられています。 覚園寺 は、二代執権 北条義時 の建てた大倉薬師堂をその前身としています。 源実朝 が暗殺されたとき、 義時 を救ったのが大倉薬師堂の 戌神将 だったといわれています。 黒地蔵縁日では、本堂(薬師堂)の薬師如来像、日光・月光菩薩像、十二神将像など貴重な仏像を拝観することができます。 黒地蔵縁日 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/kurojizo.htm 覚園寺 https://www.yoritomo-japan.com/page041kakuonji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

伝説の観音さまと四万六千日詣り

イメージ
古くは「朝詣り」とも呼ばれた 「四万六千日詣り」 。 8月10日にお詣りすると4万6千日の間お詣りしたのと同じご利益があると伝えられています。 かつて、三浦半島の人たちは、提灯を下げ、名越の山を越えて、 杉本観音 、 長谷観音 、 田代観音 を巡り、最後に逗子の 岩殿寺 を巡って帰宅したといいます。 杉本観音 鎌倉最古の寺といわれる杉本寺は、行基によって創建されました。 「大倉観音」「下馬観音」「覆面観音」とも呼ばれています。 板東観音巡礼一番札所。 https://www.yoritomo-japan.com/page042sugimoto.htm 『吾妻鏡』には・・・ 1189年(文治5年)11月23日夜、大倉観音堂(杉本寺)が火事に遭います。 別当の浄台房は、観音像を運び出すため火の中に入っていきました。 誰もが死んでしまうだろうと思っていましたが、観音像を運び出すことに成功したといいます。 法衣は焦げていましたが、身体はなんともなかったそうです。 観音さまは火にも焼かれないということでしょうか。 といったことが記されています。 一方、 『杉本寺縁起』では・・・ 火事に遭った観音さまは、一人で杉の木の下に避難したと伝えています。 そして、人々は「杉本観音」と呼ぶようになったのだと・・・。 その他、寺の前を馬に乗ったまま通ると落馬するので「下馬観音」とも呼ばれていたといいます。 そこで、 蘭渓道隆 が祈願し、袈裟で観音さまを覆ったところ落馬がなくなったことから、「覆面観音」とも呼ばれていたそうです。 長谷観音 木造では日本最大級の十一面観音像です。 板東観音巡礼四番札所。 https://www.yoritomo-japan.com/page136hasedera.htm 721年(養老5年)、諸国を巡っていた徳道は、大和国で巨大なクスノキを発見します。 徳道は、このクスノキで二体の観音像を造らせました。 一体は大和国の長谷寺に安置され、もう一体は「有縁な地に行って、衆生済度を施したまえ」ということで、行基によって大阪の海から流されました。 それから歳月が流れ、16年目の736年(天平8年)になって三浦半島の長井浜に漂着したといいます。 そして、現在の地

9本の足を持つ馬・・・吾妻鏡

イメージ
『吾妻鏡』によると・・・ 1193年(建久4年)7月24日、横山時広は、一疋の「異馬」を 源頼朝 の前に引き連れたといいます。 それは、淡路国国分寺辺りで見つかった9本の足を持つという珍しい馬でした。 前足が5本、後足が4本。 頼朝 は、その異馬を陸奥国外浜(青森県津軽半島)に放つよう伊沢家景に命じています。 ところが・・・ 異馬は、陸奥国外浜に連れて行かれる途中で、皇后大進為宗の家人源五七郎によって射殺されていました。 源五七郎は、行方をくらましていましたが捕らえられ、1194年(建久5年)6月10日、 和田義盛 によって禁固刑に処せられたといいます。