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10月 3, 2021の投稿を表示しています

源頼朝の御所の造営

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1180年(治承4年)10月9日、 源頼朝 の御所の造営が始まりました。 工事を奉行したのは 大庭景義 。 まずは、新造の建物ではなく、山ノ内にあった首藤兼道の旧宅が移築されています。 安倍晴明の護符の御加護で「200年もの間火災にも遭わずにいた」ということから移築されたとのだとか。 首藤兼道邸の移築は10月15日に完了しています。 ただ、その場所がどこだったのかは定かではありません。 大倉御所跡 首藤邸の移築工事と併行して、大倉の地に新造建物の建築も行われ、12月12日に完成しています。 安倍晴明像 (京都:晴明神社) 安倍晴明は平安時代の陰陽師。 平安以降、鎌倉時代から明治に至るまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。 陰陽師は、星の動きで吉凶を予測し、呪術をつかっての厄除けや怨霊を鎮める役職でした。 晴明神社 は、晴明を祀るため、屋敷跡に建てられました。 安倍晴明の碑 (北鎌倉) 伝説によると、山ノ内には安倍晴明の屋敷があったのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

かっぱ筆塚と絵筆塚と絵筆の祭~鎌倉:荏柄天神社~

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荏柄天神社 の 「かっぱ筆塚」 は、漫画家の清水崑が鎌倉の古道具屋で購入して愛用していた絵筆を納めたもので、1971年(昭和46年)に建てられました。 除幕式には、作家の小林秀雄・永井龍男、漫画家の横山隆一・那須良輔・小島功など80名が参列したのだそうです。 かっぱ筆塚 筆を担いだ河童の絵が彫られています。 清水崑の河童は、黄桜酒造のキャラクターとして採用されました。 裏側に彫られている「かっぱ筆塚」の文字は、作家川端康成の揮毫。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~清水崑のかっぱが名の由来~ かっぱを描き続けた清水崑。 1953年(昭和28年)から「かっぱ天国」が週刊朝日に連載されると、1955年(昭和30年)には、黄桜酒造のキャラクターとして採用されます。 同年、カルビーでは、清水崑がキャラクターを描いた「かっぱあられ」を発売。 1964年(昭和39年)には、「かっぱえびせん」が販売されますが、その名は「かっぱあられ」に由来しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~「かっぱ筆塚」の祭~ 「かっぱ筆塚」 が建立されると、絵筆の祭りが行われるようになりますが、1974年(昭和49年)に清水崑が他界すると、その祭りも途絶えがちになっていったそうです。 鎌倉に居を構えていた横山隆一は、清水崑の遺志を汲み、新たに筆塚を建てて、絵筆の祭りを鎌倉の年中行事としようと計画します。 これに牧野圭一や加藤芳郎などが賛同。 日本漫画家協会に所属する漫画家たちが、それぞれのキャラクターを河童で表現したレリーフが作成されます。 そして、1989年(平成元年)、かっぱ筆塚の後方に、横山隆一がデザインしたブロンズ製の 絵筆塚 が建立され、漫画家たちが描いたレリーフが飾られました。 絵筆塚 は、鉛筆をかたどったもので、高さ3メートル、直径1メートル。 10月22日、清水崑夫人、横山隆一、小島功をはじめとする関係者200名近くが参列して除幕式が行われました。 塚の基部には、当時の宮司白井永二、横山隆一、牧野圭一によって5枚の絵皿が納められています。 絵筆塚 絵筆塚 の建立以来、毎年10月に行われているのが 絵筆塚祭 。 絵筆塚祭 には、漫画家により寄せられた漫画

養和の飢饉と源頼朝

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1180年(治承4年)は、畿内を中心に北陸、西国では旱魃による農産物被害が甚大でした。 鴨長明 は『方丈記』に、春・夏は日照りで、秋は大風と洪水で五穀がことごとく実らず、2年間、食べ物がない状況で、 仁和寺 の僧が数がわからないほどの死者の額に「阿」の字を書いて供養していたと記しています。 『餓鬼草子』 (奈良国立博物館) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)8月17日に挙兵した 源頼朝 は、8月24日、 石橋山 で大敗したものの、安房に渡って軍勢を整え、10月6日(7日)には鎌倉に入り、10月20日には 富士川の戦い で平氏軍を敗走させます。 敗れた頼朝が1ヶ月ちょっとの短期間で再起できたのは、各国の目代を滅ぼして平氏への連絡網を遮断したことが大きな理由ともいわれていますが、もう一つに西国の食糧難があったのではないでしょうか。 富士川の戦い で頼朝は敗走した平氏軍を追って一気に上洛してしまおうと考えたようですが、 上総広常 ・ 千葉常胤 ・ 三浦義澄 らに関東の統一が先と主張されて諦めたと『吾妻鏡』には記録されています。 しかし、すでに畿内・西国の食料不足は頼朝も知っていたでしょうし、攻め入ろうにも兵糧の調達ができないことは分かっていたはずです。 平氏軍の敗走にしても、兵糧不足で兵士の士気が上がらなかったのだという説もあります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ その後は反平氏の行動が拡大。 平氏軍は12月に平清房が 延暦寺 の堂舎を焼き、平重衡が 東大寺 ・ 興福寺 を焼亡させ、翌年4月には墨俣の戦いで勝利しますが、それ以後は戦線を維持するのが精一杯で疲弊していったようです。 1183年(寿永2年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破った 木曽義仲 が入京しますが、平氏が敗れた要因には飢饉による兵糧不足もあったのでしょう。 そして、食糧難の都では、大量の兵が入ってきたことで、略奪行為が横行したそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ その間、頼朝は東国の整備に専念していたようです。 1180年(治承4年)10月の 富士川の戦い の翌月には、常陸の佐竹秀義を攻め( 佐竹征伐 )、さらに、足利氏と新田氏を帰属させて、関東を支配下に入れました。 12月には 御所 が完成。 頼朝は鎌倉の主に推戴されています

以仁王の令旨は文覚が頼朝に届けたという噂!~伝説の八坂不動明王~

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源頼朝 が流人生活を送っていた 伊豆国 。 そこには怪僧と呼ばれた 文覚 も流されてきました。 後白河法皇 に 神護寺 再興の訴えを起こしたことで、法皇の怒りを買ってしまったのだそうです。 文覚上人荒行像 (鎌倉:成就院) 文覚 は、元は遠藤盛遠といい、北面の武士として朝廷に仕えていました。 同僚の渡辺渡の妻・袈裟御前に懸想をし、渡を殺してしまおうとしたところ、誤って袈裟御前を殺してしまい僧になったという人物。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伊豆国へ流された 文覚 は、頼朝が流されていたという 蛭ヶ小島 に近い奈古谷に庵を結んだのだといいます。 毘沙門堂 (伊豆の国市) 毘沙門堂 は 文覚 が庵を結んだという場所に建つ堂で、頼朝はここで源氏再興の挙兵を勧められたのだといいます。 そして、1180年(治承4年)がやってきます。 京都では 平清盛 の人気は急降下。 そんな時、赦免されて京都に帰っていた文覚が、再び伊豆の頼朝の前に現れます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伝説によると・・・ 文覚 は不動明王像を担いでいました。 この不動明王像は、 八坂の塔 が傾いてしまったときに、浄蔵貴所が祈祷の本尊としたもので、長く 神護寺 に置かれていたのだといいます。 文覚はその不動明王像に 以仁王の令旨 を隠して頼朝に届けたのだとか・・・ さて、その不動明王像は今どこにあるのか??? 鎌倉の 浄光明寺 の 不動堂 に祀られている不動明王像は「八坂不動明王」と呼ばれています。 浄光明寺不動堂 浄光明寺 は 源頼朝 が 文覚 に命じて建てさせた堂がそのはじまりとも言われています。 八坂不動明王は大晦日の晩、除夜の鐘が撞かれる頃に開帳されます。 八坂の塔 948年(天暦2年)、 八坂の塔 は皇居の方へ傾いてしまったのだそうです。 それを法力で戻したのが浄蔵貴所だったのだとか。 神護寺 神護寺 は弘法大師ゆかりの寺。 平安時代後期には衰退してしまいますが、 源頼朝 の助勢を受けながら 文覚 が再興しました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

「鎌倉殿の13人」寺社・史跡めぐり:鎌倉編

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1180年(治承4年)8月17日、配流地の 伊豆国 で 挙兵 をした 源頼朝 は、 石橋山の戦い で敗れてしまいますが、 真鶴 から 安房国 へと渡って再挙。 10月6日(7日)、大軍を率いて鎌倉に入ります。 先陣は 畠山重忠 、殿は 千葉常胤 でした。 ただ、 北条時政 と 北条義時 は、 武田信義 との連絡のため甲斐国に赴いていました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 浄光明寺不動堂 浄光明寺 の 不動明王 は、京都の 八坂の塔 が傾いたときに祈祷の本尊だっという伝説の像。 長く 神護寺 に置かれていましたが、 文覚 がこの像の中に以仁王の 平家打倒の令旨 を隠して 伊豆 の 源頼朝 に届けたのだとか・・・ ただ、その様式から南北朝時代から室町時代のものらしい。 蓮乗院 (光明寺) 頼朝に鎌倉入りを進言したのは 千葉常胤 。 光明寺 の支院 蓮乗院 は、 弁谷 に屋敷があった常胤の檀那寺であったといわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 亀ヶ谷坂 頼朝は 亀ヶ谷坂 から鎌倉に入ったと考えられているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 は、1063年(康平6年)に 源頼義 が由比郷に京都の 石清水八幡宮 を勧請して創建したことに始まります( 由比若宮 )。 由比若宮 鎌倉に入った頼朝は、10月12日、 由比若宮 を小林郷北山(現在地)に遷座し、武家の都の中心に据えます。 大倉幕府跡 (大倉御所跡) 御所 の造営は、10月9日から 大庭景義 を奉行として始められ、12月12日に完成しました。 新造の 御所 に入った頼朝は、御家人311人から「鎌倉の主」に推戴されます。 鎌倉殿の誕生です。 この少し前の11月17日、 和田義盛 が侍所の別当に任じられています。 壽福寺 壽福寺 は、頼朝の父 義朝 の旧跡に建てられた寺。 頼朝は当初、ここに御所を造営するつもりでいましたが、 岡崎義実 によって義朝の菩提を弔うための堂宇が建てられていたことや、土地が狭かったことなどから大倉の地を選んだのだといわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉と源氏の繋がりは、 源頼義 が平直方から大蔵亭を譲り受けたことから始まります。