投稿

5月 10, 2020の投稿を表示しています

曽我兄弟を祀る曽我神社~箱根神社~

イメージ
曽我神社 は、曽我祐成と曽我時致の兄弟を祀る社。 二人は 河津祐泰 の子( 伊東祐親 の孫)ですが、幼い頃に祐泰が 工藤祐経 に暗殺されてしまったため、母 満江 が再婚した 曽我祐信 を養父として育ちました。 幼名は一萬(いちまん)と筥王(はこおう)。 『曽我物語』によると、一萬は13歳のときに養父の 曽我祐信 を烏帽子親として元服して十郎祐成と名乗ります。 『吾妻鏡』によると、筥王は、1190年(建久元年)9月7日、 北条時政 を烏帽子親として元服し五郎時致と名乗ります。 ~仇討ち~ 1193年(建久4年)5月28日、兄弟は 源頼朝 が催した 富士裾野の巻狩り の時に、父の仇 工藤祐経 を討ち取ります。 仇討ちの直前の5月16日、 箱根権現 に参拝した曽我兄弟は、別当の行実から 木曽義仲 奉納の「微塵丸」と 源義経 奉納の「薄緑」という太刀を授かったのだといいます。

源平合戦で捕らえられた平宗盛と平重衡~鎌倉:教恩寺・補陀洛寺~

イメージ
宗盛は 平清盛 の三男。 重衡は五男。 この二人は、 源平合戦 で捕らえられ鎌倉に送られてきました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~一ノ谷で捕えられた平重衡~ 重衡は、 「南都焼討」 (1180年(治承4年)12月)の総大将であったことで知られています。 また、実質的な源平合戦の初戦ともいわれる墨俣川の合戦(1181年(治承5年)3月)では、源行家を総大将とする頼朝軍に大勝しています(この戦いでは 頼朝 の弟義円が討たれました。)。 しかし、1184年(寿永3年)、無念にも 一ノ谷の戦い で捕らえられてしまいます。 1184年(寿永3年)3月28日、重衡は、伊豆の国府で 頼朝 に対面します。 勝ち誇る 頼朝 に対し重衡は、「弓馬に携わる者、敵のために虜へらるること、あながち恥辱にあらず。早く斬罪に処せらるべし」と述べたといいます。 この態度に感心した頼朝は、 工藤祐経 を付け、重衡を客として厚遇したそうです。 教恩寺 鎌倉に入った重衡は、頼朝に一族の冥福を祈るよう 阿弥陀仏 を与えられたといいます。 その阿弥陀仏が 教恩寺 の本尊であると伝えられています。 平重衡とらわれの松跡 一ノ谷古戦場 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~壇ノ浦で捕えられた平宗盛~ 宗盛は、1181年(治承5年)閏2月、平清盛が亡くなるとその跡を継ぎます。 清盛の「頼朝が首をはねて、わがはかのまえにかくべし」という遺言を果たすべく平家軍の総大将として戦いますが、墨俣川の合戦以後、大きな戦勝報告を聞くことはできず、1185年(元暦2年)3月24日、 壇ノ浦 に平家は滅亡します。 宗盛は海に身を投じますが生捕りにされました。 1185年(元暦2年)5月16日、鎌倉に入った宗盛は、「ただ愁涙に溺るるの他なし」という有様だったといいます。 「助けてもらえるなら出家したい」 と嘆願したともいいます。 補陀洛寺 補陀洛寺 には、宗盛が所持していたという 平家の赤旗 が残されています。 平家の赤旗 壇ノ浦古戦場 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 宗盛と重衡は、鎌倉の人々には対照的に写ったことでしょう。 そして、この2人は1185年(元暦2年

北条得宗家の嫡子として誕生した北条時宗

イメージ
北条時宗 は、1251年(建長3年)5月15日、五代執権 北条時頼 の子として、 甘縄の第 で誕生します。 母は、 連署 として父 時頼 を支えた北条重時の娘(葛西殿)。 (参考: 隆弁の予告と北条時宗の誕生 ) 時宗 には異母兄の時輔がいましたが、長幼の順によらず、 北条得宗家 の嫡子として育てられます。 北条時宗公産湯の井 (甘縄神明神社) 安達邸跡碑 (甘縄神明神社) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~北条時頼の「子息の序列」~ 『吾妻鏡』によれば・・・ 1257年(正嘉元年)2月26日、六代将軍 宗尊親王 の御所で元服し、一字を賜り「相模太郎時宗」と名乗ります。 1261年(文応2年)正月4日、 鶴岡八幡宮 の供奉の序列が、相模太郎(時宗)、相模四郎(宗政)、相模三郎(時輔)と定められます。 ※宗政は 時宗 の同母弟、時輔は異母兄です。 この決定は、 「時宗は全てにおいて兄の上に着すべき」 という 時頼 の意向によるものだったといいます。 ※時輔の母については、三河局とも、将軍家讃岐とも伝えられています。二人は同一人物ともいわれていますが定かではありません。 こうして、 時頼 は、 北条得宗家 の後継者が 時宗 であることを内外に認めさせていきました。 さらに、この年の4月23日、 時宗 は、有力御家人安達義景の娘堀内殿と結婚し、さらにその基盤を盤石なものとします。 結婚の翌々日の25日には、 極楽寺 で小笠懸が行われ、 時宗 は将軍の御前で妙技を披露し、 時頼  はそれを見て 「時宗こそ受け継ぐ器に相当」 と喜んだといいます。 極楽寺 八重一重咲分桜 (極楽寺) 時宗のお手植えという 鎌倉原産の桜 。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~八代執権北条時宗~ 時宗 の父 時頼 は、1256年(康元元年)11月22日、病気を理由に執権の座を退き、その職を重時の子長時に譲っています。 しかし、これは嫡子 時宗 が幼少であったための措置で、長時は 時宗 の代理としての就任でした。 1264年(文永元年)には、長時が執権を辞し、一族の長老北条政村が執権に就任しますが、この措置も、まだ14歳だった 時宗 の代理というもので

2020年の鎌倉検定は中止に。

イメージ
2020年(令和2年)の鎌倉検定は中止となりました。 毎年7月から受験申し込みが始まり、11月に試験という流れですが・・・ 専門家の皆さんのお考えでは、新型コロナウイルス感染症の第2派・第3派は必ずやってくるということです。 特に秋から冬が危険ということですので、鎌倉検定の中止はやむを得ないことなのかと思います。

隆弁の予告と北条時宗の誕生

イメージ
『吾妻鏡』によると・・・ 1250年(建長2年)8月27日、 北条時頼 室(葛西殿)の懐妊が明らかとなり、祈祷が行われています。 12月13日、 鶴岡八幡宮 別当の隆弁が加持を勤め着帯の儀が執り行われました。 甘縄神明神社 北条時宗 が生まれたのは、父 時頼 の母 松下禅尼 の「甘縄の第」でした。 松下禅尼 は、 安達景盛 の娘。 安達氏の館 は、 甘縄神明神社 の辺りにあったと伝えられています。 (※ 松下禅尼質素倹約の教え ) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~隆弁の出産予告~ 翌1251年(建長3年)5月1日、出産間近となった葛西殿は、産所とした 松下禅尼 の「甘縄の第」に移ります。 5月14日になると隆弁は、 「出産は明日酉の剋」 と予告します。 そして次の日がやってきました。 時頼 は、今日出産というのに葛西殿にその気配がないので、隆弁に使いを出しています。 すると隆弁は、 必ず 「今日の酉の剋に出産なので心配ご無用」 と返答しているようです。 そして、隆弁の予告どおりに 時宗 が誕生しました。 このとき隆弁は、 三嶋大社 に祈願している間に受けた夢告について披露しています。 2月12日寅の剋、隆弁の夢に白髪の老翁が現れて、 「祈念するところの懐婦は、5月15日酉の剋に男子を平産する」 と告げたのだといいます。 三嶋大社 北条時宗公産湯の井 (甘縄神明神社) (参考: 北条得宗家の嫡子として誕生した北条時宗 ) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

分倍河原古戦場・・・新田義貞の鎌倉攻め

イメージ
分倍河原古戦場跡 府中の 分倍河原 は新田義貞の古戦場。 1333年(元弘3年)、討幕の挙兵をした新田義貞は、 分倍河原 で幕府軍を破り鎌倉を目指しました。 そして、 稲村ヶ崎 を突破して鎌倉に乱入した義貞は、 東勝寺 に籠もる 北条高時 を攻め、鎌倉幕府を滅亡させました。 新田義貞像 (分倍河原駅前) 分倍河原駅前の新田義貞像の顔は、鎌倉の方角を向いているのだといいます。