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7月 7, 2013の投稿を表示しています

梶原景時の亡霊を供養する三門梶原施餓鬼会・・・建長寺

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建長寺 では、7月15日、 梶原景時 を供養するための 「三門梶原施餓鬼会」 が行われます。 三門梶原施餓鬼会 梶原景時 は、1180年(治承4年)8月に 源頼朝 が 挙兵 したときは、平氏方の 大庭景親 に従っていました。 しかし、『吾妻鏡』によれば、8月24日、 石橋山の戦い に敗れ、山中に逃れた 源頼朝 の居場所を知っていながら、それを見逃したといいます。 しとどの窟 (湯河原町) 『吾妻鏡』によれば、 源頼朝 は山中の岩屋に 清水寺 から下された2寸銀の聖観音像を置いたといいます。 その岩屋がこの 「しとどの窟」 だと伝えられています。 梶原景時 が 頼朝 を見逃したのもこの場所だったのかもしれません。 翌年正月、 梶原景時 は 源頼朝 の御前に参り、御家人として名を連ねることとなります。 ただ、 頼朝 の信任が厚かった一方で、 上総介広常 の暗殺や讒言によって 源義経 を死に追いやったことなどもあり、他の御家人からは嫌われる存在だったようです。 1199年(建久10年)に 頼朝 が亡くなると、間もなく、御家人66名の弾劾状が提出され、翌年には鎌倉を追放され、駿河国で最期を遂げました( 梶原景時の変 )。 梶原景時像 東京大田区の 万福寺 に安置されている像です。 ある年の 建長寺 の施餓鬼会が行われた日、そんな 梶原景時 の亡霊が現れます。 亡霊は施餓鬼会が終わっていたので残念そうに引き上げていったそうです。 しかし、 蘭渓道隆 が呼び戻し、再び施餓鬼会を行ってあげると、感謝して消えていったのだといいます。 こうして 建長寺 では、今でも 景時 の霊を供養するための施餓鬼会を 三門 の下で行っています。 「三門梶原施餓鬼会」 は、7月15日の午前8:00から。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 建長寺 鎌倉手帳

法華経信者:源頼朝の経塚・・・六萬部寺(函南町)

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源頼朝の経塚 源頼朝 は源氏再興を祈願して、ここに法華経六萬部を納めたのだといいます。 経塚のある六萬部寺 ~ 参 考 ~ (法華経信者だった源頼朝) 『吾妻鏡』によると、 源頼朝 は1180年(治承4年)7月4日、 伊豆山権現 の僧文陽房覺淵を 北条屋敷 に呼び出しています。 頼朝 は、 挙兵 前に法華経を千回唱えるつもりでいたようです。 しかし、忙しくなり千回を達成することが難しくなりました。 そこで、 「たとえば八百回だとしたら功徳をつむことはできるのか?」 と覺淵に訪ねたといいます。 すると覺淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたといいます。 (頼朝の守り本尊) 挙兵 した 頼朝 は髷に観音像を入れていました。 1180年(治承4年)8月24日条、 石橋山 で 大庭景親 ら平氏方に敗れた 頼朝 は、「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考え、観音像を山中の 洞窟 に置いて逃げたといいます。 この観音像は、 頼朝 が三歳のときに京都 清水寺 から下された二寸銀の正(聖)観音像で、のちに 伊豆山権現 の專光坊良暹の弟子僧が見つけて 頼朝 に届けられました。 そして、1189年(文治5年)に建てられた持仏堂( 法華堂 )の本尊となります。 ※観音経は法華経のなかの一つ。 ・・・・・・・・・・・ 伊豆・箱根の旅 鎌倉手帳

鎌倉:妙本寺のノウゼンカズラ2013/07/09

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妙本寺 の 二天門 背後の ノウゼンカズラ 。 まだ アジサイ も楽しめます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉のノウゼンカズラ 鎌倉手帳

鎌倉の海開き2013/07/09

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鎌倉の海開き。 鎌倉の海水浴場は、 材木座 海水浴場・ 由比ガ浜 海水浴場・ 腰越 海水浴場の3ヶ所。 2013年の海水浴場開設期間は7月9日(火)から9月8日(日)まで。 開設時間は午前9時から午後5時間まで。 滑川には夏場だけの橋も架けられました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉の海 鎌倉手帳

安房国の源頼朝上陸地

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1180年(治承4年)8月28日、 石橋山の戦い に敗れた 源頼朝 は、 真鶴岬 から船出して安房国を目指しました。 源頼朝上陸地の碑 翌8月29日、安房国平北群猟島に上陸。現在の鋸南町竜島だといわれています。 その後、 源頼朝 は、安房・上総・下総・武蔵の有力武将を従えて鎌倉入りを果たします。 神明神社 源頼朝が滞在したという場所。 鋸南町には日本武尊の伝説も残されています。 安房勝山駅 ★ 源頼朝特集・・・挙兵から鎌倉入り ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝と富士浅間信仰・・・新橋浅間神社:御殿場市

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1193年(建久4年)、 源頼朝 は富士の巻狩りを催すに際し、浅間神社の多くの寄進を行いました。 浅間神社の総本社とされる富士宮本宮浅間大社の流鏑馬は、 源頼朝 が奉納した 流鏑馬 を起源としているといいます。 新橋浅間神社 御殿場市にある 新橋浅間神社 は、巻狩りを催すにあたり、 源頼朝 が創建したと伝えられています。 かつて、関東からの富士の登山者は、まず 新橋浅間神社 に詣でて禊ぎをしてから出発したことから、東表口参道宮と呼ばれていました。 ※関西からの登山者は、富士宮本宮浅間大社(西表口参道宮)に詣でてから出発したといいます。 木の花名水 境内の富士の湧き水。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉の歴史と源頼朝 鎌倉手帳

源頼朝特集・・・挙兵から鎌倉入り

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平治の乱 1159年(平治元年)12月に起こった 平治の乱 に父 源義朝 とともに出陣した 源頼朝 は平清盛に敗れ、翌年3月に 伊豆国 へ流されました。 蛭ヶ小島 (伊豆の国市) 流された場所は 蛭ヶ小島 だったといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 頼朝 は、それから約20年間を 伊豆国 で過ごしました。 その間、 北条政子 と結婚し大姫が誕生しています。 そして、1180年(治承4年)8月17日、 源氏再興の挙兵 を果たしました。 挙兵した日は、信仰していた 三嶋大社 の例祭の日。挙兵前には 守山八幡宮 で源氏再興の祈願を行ったといいます。 三嶋大社 (三島市) 守山八幡宮 (伊豆の国市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伊豆国 の目代 山木兼隆 を討った 頼朝 は、8月20日、相模国へと進軍し、23日には 石橋山 に布陣しました。 石橋山古戦場 (小田原市) しかし、 大庭景親 ・ 伊東祐親 らの平氏軍に敗れ山中に逃れます。 湯河原町には 頼朝 が隠れ潜んだという岩窟が残されています( しとどの窟 )。 この山中の逃亡では、敵の 梶原景時 が 頼朝 を助けたという言い伝えも残されています。 しとどの窟 (湯河原町) 箱根神社 (箱根町) その後、 箱根権現 を頼りますが、間もなく土肥へ下り、8月28日、真鶴から安房へ船出しました。 ここまでの手引きをしたのは湯河原・真鶴を本拠としていた 土肥実平 でした。 源頼朝船出の浜 (真鶴町) 頼朝 が挙兵してから船出するまでの間、 政子 は 伊豆山神社 に身を寄せていましたが、9月2日、平氏の追手から逃れるために 秋戸郷 に移ったといいます。 伊豆山神社 (熱海市) 秋戸郷跡 (熱海市) 源頼朝上陸地 (鋸南町) 真鶴から船出した 頼朝 は、8月29日、安房国平北群猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸しました。 そこで、先発していた 北条時政 や 三浦一族 と合流しています。 ~安房上陸から鎌倉入りまで・・・~ 9月1日 安西景益に参陣するよう書状を送る。 9月3日 平北群を発って