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草の戸や日暮れてくれし菊の酒~芭蕉句碑~

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「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」 松尾芭蕉が1691年(元禄4年)9月9日の重陽の節句に詠んだ句。 「草の戸」は、芭蕉が滞在していた 義仲寺 の 無名庵 のこと。 夕暮れになって、その無名庵に門人の川井乙州(おとくに)が酒一樽を届けてくれました。 重陽の節句には菊花酒(酒に花を浸した酒)を飲む風習があって、健康長寿を願ったのだといいます。 芭蕉の墓 1694年(元禄7年)10月12日、芭蕉は大坂御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」で亡くなりました。 遺骸は、遺言により 義仲寺 の 木曽義仲の墓 の隣に葬られたそうです。 義仲寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

誅殺された畠山重忠の末子・重慶

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慈光寺 (埼玉県ときがわ町) 畠山重忠 の末子・重慶は、1205年(元久2年)、父の重忠が 北条時政 の謀略により武蔵国 二俣川 で討死すると、 慈光寺 に登って別当を勤めたのだといいますが・・・ 『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)9月19日、日光山二荒山神社別当の弁覚の使者が鎌倉に到着します。 報告された事は、 畠山重忠 の末子重慶が日光山の麓に住んで謀反を企てているというもの。 その事を伝えられた将軍 源実朝 は、長沼宗政に重慶を捕まえてくるよう命じたのですが・・・ 9月26日、宗政が下野国から重慶の首を持って帰着。 実朝 は 「 畠山重忠 は罪もないの討たれた。 その末子が謀反を企てたとするなら、捕虜にして調べるべきであるのに殺してしまうとは・・・」 と嘆いたのだとか。 その事が宗政に伝えられると 「重慶の謀反は疑いない。 生け捕ってくると、 政子 様や女官の願いで許されてしまうだろう。 だから殺した」 と主張。 さらに、 「当代は、蹴鞠を業として、武芸は廃れたようなもの。 女官を部下とし、勇士はないのと同じ」 などの無礼な言葉を吐いて御所を去ったのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

秩父武綱と源氏の白旗と畠山重忠

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畠山重忠 の高祖父・秩父武綱は、武蔵国秩父郡吉田郷に 吉田城 を構えて秩父牧を支配した武将。 源頼義 ・ 義家 父子にい、1051年(永承6年)の前九年の役では頼義から源氏の白旗を賜り、1083年(永保3年)の後三年の役では先陣を務めました。 『源平盛衰記』によると、1180年(治承4年)、 重忠 は武綱が賜った源氏の白旗を掲げて 源頼朝 の下へ参陣。 重忠が 鎌倉入り の先陣を務めたのは、先祖の故事に倣ってのことなのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 金王八幡宮 (東京都渋谷区) 金王八幡宮 は、武綱の子河崎基家が創建したと伝えられる社。 基家は武蔵国河崎荘(川崎市)や小机郷(横浜市港北区)などを本領とし、後三年の役の功によりや武蔵国谷盛荘(現在の東京都渋谷)を与えられたのだという。 後に基家の子重家は、相模国渋谷荘(藤沢市・綾瀬市)に移住し渋谷氏を称することに。 頼朝 の挙兵に参陣して活躍した 佐々木四兄弟 を庇護していたという 渋谷重国 は重家の子。 頼朝の父 義朝 に従い、 常盤御前 に義朝の死を知らせたという金王丸も重家の子といわれる・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の乱と足立遠元

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『吾妻鏡』によると・・・ 足立遠元 は、1180年(治承4年)の 源頼朝 の 挙兵 に参じ、最初に所領を安堵された武将。 遠元の所領は武蔵国足立郡。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1205年(元久2年)に 畠山重忠の乱 が起こった際、遠元がどうしていたのか不明ですが、娘は 畠山重忠 に嫁いでいました。 となると、何らかの影響を受けたものと考えられます。 かなり時代は下がりますが、 後醍醐天皇 の建武の新政で足利氏が賜った恩賞地に「北条泰家の武蔵国足立郡」があります。 もしかすると、 畠山重忠の乱 後、武蔵国足立郡は北条氏の領地になっていたのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 足立遠元 が足立郡のどこに館を構えていたのかは不明ですが、埼玉県には館跡と推定されている地が数か所あります。 伝足立右馬允遠元館跡碑 (桶川市) 桶川市はその推定地の一つ。 六部堂 (さいたま市大宮区) さいたま市西区植田谷本にある六部堂の西側一帯もその一つ。 足立神社 (さいたま市大宮区) 足立神社 は足立氏が祀ったのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 駕籠塚 (横浜市旭区) 駕籠塚 は、 畠山重忠 の内室といわれる菊の前の墓。 重忠が 北条義時 らに攻められていることを知った菊の前は、戦場の二俣川に駆け付けましたが、重忠が討たれたことを知って自害したのだといいます。 菊の前は 足立遠元 の娘とされています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

2022小出川彼岸花まつり

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藤沢市、寒川町、茅ヶ崎市を流れる小出川沿いには、約3㎞にわたって彼岸花が咲きます。 2022年の彼岸花まつりは9月24日(土)。 小出川沿いには多くの寺社が多くあるので、歴史好きの人も楽しめます。 特に 「鎌倉殿の13人」 の一人 梶原景時 は寒川町に 館 がありました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉のヒガンバナ

盟友安達景盛との戦い~畠山重忠の乱~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1205年(元久元年)6月22日、 畠山重忠 討伐のため、 北条義時 ・ 葛西清重 ・千葉常秀・大須賀胤信・国分胤通・相馬義胤・東重胤・足利義氏・ 小山朝政 ・ 三浦義村 ・三浦胤義・長沼宗政・ 結城朝光 ・ 宇都宮頼綱 ・八田知重・ 安達景盛 ・中条家長・中条義季・狩野宗茂・宇佐美祐茂・波多野忠綱・松田有経・土屋宗光・河越重時・河越重員・江戸忠重・澁河武者所・小野寺秀通・ 下河辺行平 ・薗田成朝らが出陣。 そして、 武蔵国二俣川 で重忠と出会うと、 安達景盛 が主従七騎で真っ先に進み出ます。 弓馬の友が先頭を進んでくるのを見た 重忠 は感動し、子の重秀に景盛との戦いに命を掛けてくるよう命じました。 景盛と重忠の戦いは何度にも及び、加治宗季はじめとする景盛の家人が討たれています。 弓の戦いも刀剣の争いもなかなか決着が着きませんでしたが、 愛甲季隆 の放った矢が重忠に当たり戦いは終わりました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 安達景盛 は、 源頼朝 の側近だった 安達盛長 の子。 母は頼朝の乳母だった 比企尼 の長女丹後内侍。 幕府重鎮の地位を築きますが、 源実朝 が暗殺されると出家。 大蓮房覚智と号して 高野山 に入り、実朝の菩提を弔うために 金剛三昧院 を建立して高野入道と称されました。 畠山重忠主従の五輪塔 (畠山重忠史跡公園) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ