『吾妻鏡』によると・・・ 鶴岡八幡宮で 流鏑馬 が始められた年の前年8月15日、 鶴岡八幡宮 に参拝した 源頼朝 は、鳥居の辺りを徘徊している一人の老僧を見つけます。 梶原景季 に名前を尋ねさせたところ、佐藤兵衛尉義清という元北面の武士で、今は西行と名乗っているとのことでした。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~ 西 行 ~ 平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した西行の俗名は、佐藤義清(のりきよ)。 その家系は藤原秀郷を祖とし、曾祖父の頃より「左衛門尉」であったことから「佐藤」を名乗るようになったとする説があります。 源頼朝 に仕えた 安達盛長 や、 源義経 に仕えた佐藤継信・忠信兄弟が同族といわれています。 西行像 義清が誕生したのは、平清盛と同じ1118年(元永元年)。 鳥羽上皇の時代には、北面の武士として仕えました。 「北面」とは、白河法皇の時に院警固のための設置された制度で、弓馬の道に優れただけではなく、眉目秀麗で、詩歌管弦に堪能であることが条件とされていたそうです。 しかし、義清は、1140年(保延6年)、23歳で出家してしまいます。 『西行物語』は、出家の原因を親友の佐藤範康の死と伝えているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~弓馬道を教えてもらった頼朝~ さて、西行と出会った頼朝は、 『吾妻鏡』によると・・・ 鶴岡八幡宮 奉幣の後、西行を御所に招き入れて、和歌や弓馬のことについて尋ねます・・・ しかし西行は、 「弓馬のことは、出家する前まではその流派を伝えていましたが、1137年(保延3年)に出家したときに、藤原秀郷以来九代の嫡流家に伝わった兵法は焼いてしまい、罪業の原因ともなりますので心にも留めず、忘れてしまいました。 詠歌については、花月に対して心が動いたときにただ31文字を作るだけで、深く理解しているわけではありません」 と答えたのだといいます。 それでも、 頼朝 が再三にわたって尋ねたので、弓馬のことは一晩に亘って語ったといいます。 頼朝 は、藤原俊兼にその口述を記録させたそうです。 翌日の正午ごろ、西行は 頼朝 の御所を辞します。 頼朝 は、このとき銀で作られた猫を西行に贈りますが、西行は、門の外で遊んでいた子どもたちに玩具と