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9月 9, 2018の投稿を表示しています

今日から Enoshima Festival 2018

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上の画像をクリックすると 江ノフェスHP に移動します。 江の島 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm

平家に焼かれた園城寺(三井寺)

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『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)12月11日、 平清盛 は、5月の以仁王の挙兵に際して、 園城寺 (三井寺)が味方したのを理由に、五男重衡を遣わして合戦に及んでいます。 園城寺が以仁王に味方したことについて、清盛は大して気にしていなかったようですが、以仁王の令旨を受けた伊豆の 源頼朝 が挙兵したことで、頼朝にも味方する可能性を心配しての決定だったようです。 翌12月12日、園城寺は焼かれ、金堂以下の堂塔は、ほとんど灰となってしまいました。 このとき、すでに南都も攻撃する計画があったようです。 ※ 平重衡の南都焼討 が起こるのは12月28日。 園城寺 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/onjyoji/onjyoji.html ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

源頼朝の乳母寒河尼

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寒河尼は八田宗綱の娘。 源頼朝 の乳母。 下野国小山荘の小山政光の後妻となり、結城朝光を産みました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~頼朝を訪ねた寒河尼~ 『吾妻鏡』によると、 1180年(治承4年)10月2日、 石橋山 で敗北後、 安房国 で再起し、鎌倉を目指して隅田川を渡った源頼朝。 その宿所に寒河尼が14歳の末子を連れてやってきました。 頼朝は、すぐに御前に呼んで思い出話をしたようです。 そして、寒河尼が子を側近として奉公させたいと願うと、頼朝は烏帽子親となって元服させたのだといいます。 名は小山七郎宗朝(のちに朝光と改められます。)。 ~頼朝の挙兵時、小山政光は?~ 寒河尼は、下野国の有力な武将・小山政光の妻。 頼朝が挙兵したとき政光は大番役で京都にいたそうです。 寒河尼の行動で、小山氏は頼朝に従うこととなり、政光も頼朝の御家人として働くこととなります。 ~寒河尼に地頭職~ 『吾妻鏡』によると、 1187年(文治3年)12月1日、頼朝は、大功を立てた寒河尼に下野国の寒河郡の地頭職と網戸郷の地頭職を与えます。 ※寒河尼の大功とは、挙兵時に小山氏を頼朝の味方につけた事かと・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝の鎌倉入りと上総広常

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石橋山の戦い に敗れ、1180年(治承4年)8月29日、 安房国平北郡猟島 (現在の鋸南町竜島)に上陸した 源頼朝 は、9月1日、 上総広常 の屋敷に行くことに決め、9月3日、平北郡を出発します。 夜は民家に宿泊。 宿所を長狭常伴が襲おうと企てていたようですが、 三浦義澄 が討ち取っています。 9月4日、召集をかけていた安西景益が宿所に到着。 景益は頼朝に、 「広常の屋敷に行くべきではありません。 長狭常伴のような連中が多いので、使者を出して迎えにくるよう仰せられたらいかが」 と進言します。 それを聞き入れた頼朝は、安西景益の屋敷に行き、 和田義盛 を上総広常の所へ行かせました。 9月6日の晩、戻ってきた和田義盛の報告によると、上総広常は 千葉常胤 に相談した上で参上する旨の返答だったようです。 9月13日、頼朝は300騎を率いて安房国から上総国へ進みます。 9月17日、上総広常の参陣を待たず下総国へ。 この日、 千葉常胤 は一族を率いて頼朝のもとに参陣しています。 そして、9月19日、 上総広常 が2万騎を率いて参陣。 しかし、このとき広常はこう考えていたようです。 「ほとんどの者が 平清盛 に仕えている中、流人の頼朝殿は軽々しく挙兵した。 その姿に高貴な相がなければ、直ちに討って平家に引き渡そう」と。 その昔、平将門は、俵の藤太秀郷が味方に駆けつけたのを聞いて、喜びのあまり、髪を結わずに烏帽子の中におし入れて秀郷に会ったといいます。 秀郷は、将門のその軽率な行動を見て「誅罰すべし」と思ったそうです。 その後、将門は秀郷に討たれています。 この故事と同じように、2万騎で参じれば、頼朝はさぞ喜ぶと思っていた広常でしたが・・・ 頼朝は喜ぶどころか広常の遅参に憤り、許そうとしませんでした。 広常は、頼朝を「人の主人となるべき人物」として、穏やかに従うこととしたそうです。 10月2日、頼朝は隅田川を渡り、3万騎にも膨れ上がった軍隊が武蔵国へと進むと、 豊島清元 、 葛西清重 、 足立遠元 が参陣。 10月4日、長井の渡しに達すると、 畠山重忠 、 河越重頼 、 江戸重長 が参陣。 そして10月6日。 頼朝は相模国に入ります。 先陣は 畠山重忠 、殿(

源頼朝の鎌倉入りと千葉常胤

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石橋山の戦い に敗れ、1180年(治承4年)8月29日、 安房国平北郡猟島 (現在の鋸南町竜島)に上陸した 源頼朝 は、9月4日、 千葉常胤 に加勢するよう伝えるため 安達盛長 を遣わします。 9月9日、戻った 盛長 の報告によると・・・ 常胤は子息らとともに盛長を丁重に迎え入れますが、盛長が頼朝の加勢要請を伝えても黙ったままでした。 二人の息子が「早く承諾の返答すべき」と催促すると、 「承諾に何の異論もない。 ただ頼朝様の源氏再興を考えると、涙が溢れ、言葉が出ないだけだ」 と答えたのだといいます。 その後の酒宴の席では、 「今の居所は、守りやすい土地ではないし、先祖の由縁の地でもない。 速やかに相模国の鎌倉へ向かわれるべき。 常胤が門客らを引き連れて、お迎えに参上いたしましょう」 と話したのだといいます。 9月13日、頼朝が300騎を率いて安房国から上総国へ向けて出発します。 常胤は、子や親類らとともに頼朝のもとへ参陣しようとしましたが・・・ 子の胤頼に「下総国には平家に従う者が多く、我々が頼朝さまのもとへ行けば、必ず攻め込んでくる思うので、まずはこれらの者を誅殺しておきましょう」 と進言され、胤頼と甥の成胤に平家の代官屋敷を攻めさせます。 代官は数十人で防戦しますが、成胤が屋敷に火を放ち、逃げ惑う代官の首を胤頼が獲ったのだそうです。 9月14日、下総国の代官が討たれると、平忠盛の聟で千田庄の藤原親政が常胤を攻めようと企てますが、成胤が捕虜にしています。 9月17日、頼朝は上総国から下総国へと出発します。 参陣するよう要請していた 上総広常 の到着を待たずの出発でした。 常胤は、子の胤正、相馬師常、武石胤成、大須賀胤信、国分胤道、東胤頼、嫡孫の千葉成胤ら三百騎を引き連れて下総国府で頼朝に合流します。 14日に捕えた藤原親政を頼朝の前に引き立てますが・・・ 藤原親政がどうなったのかは不明です。 食事の席で、頼朝は常胤を座席の傍らに呼び寄せて、 「常胤を父と思っている」と話したのだとか。 その後、常胤は頼朝の前に源義隆の子・利頼隆を連れてきました。 源義隆は、1159年(平治元年)の 平治の乱 に敗れ、東国へと逃れる途中の竜華越(途中越)で、 源義朝 の身

源頼朝が宿泊したという諏訪社~横浜市瀬谷区~

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1180年(治承4年)、 源頼朝 が宿泊したと伝えられている神社。 祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ) 言い伝えによると・・・ 1180年(治承4年)、 伊豆国 で 源氏再興の挙兵 をした 源頼朝 は、相模国へと進軍しますが、 石橋山の戦い に敗れて、 真鶴 から 安房国 へと渡ります。 安房国から上総国、下総国、武蔵国と兵を集めながら進軍し、10月6日、相模国に入って鎌倉を本拠としました。 その前夜に宿泊したのが瀬谷郷相辺沢の鎮守諏訪社なのだといいます。 翌日、郷士相辺沢義氏と相辺沢義村の先導で出発。 飯田郷の 飯田家義 とともに俣野郷で 大庭景親 と 俣野景久 の兄弟を討ち、鎌倉へと向かったのだとか・・・

晴明井戸があったという神明神社~茅ヶ崎市~

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茅ヶ崎の東海道沿いに鎮座する神明神社の境内には、平安時代の陰陽師・安倍晴明が東国へ下向したときに喉の渇きを癒したという清水が湧き出ていたのだそうです。 その水は晴明井戸と呼ばれていたのだとか。 現在は晴明井戸と刻まれた碑のみが残されています。 晴明神社 (京都) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆