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10月 8, 2017の投稿を表示しています

鎌倉の三大洋館

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鎌倉文学館 前田利嗣の鎌倉別邸として建てられ、1936年(昭和11年)、16代当主利為によって改築された鎌倉を代表する洋風建築物(国の登録有形文化財)。 古我邸 1916年(大正5年)、三菱銀行重役の荘清次郎の別荘として建てられた洋館。 旧華頂宮邸 1929年(昭和4年)に華頂宮博信侯爵邸として建てられた洋館(国の登録有形文化財)。 右上のフルスクリーンで大きな画像に。

鎌倉の寺院と邸跡

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壽福寺 (源義朝邸跡) 宝戒寺 (北条執権邸跡) 妙隆寺 (千葉胤貞別邸跡) 妙本寺 (比企能員邸跡) 大寶寺 (佐竹屋敷跡) 實相寺 (工藤祐経邸跡) 収玄寺 (四条金吾邸跡) 光則寺 (宿谷光則邸跡) 長壽寺 (足利尊氏邸跡) 英勝寺 (太田道灌邸跡) ~参考~ 安達盛長邸跡碑 (甘縄神明神社)

鎌倉検定で楽しむ海蔵寺

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鎌倉検定の過去問と情報! ※太字は鎌倉検定の問題文より。 写真をクリック・タップすると情報ページへ移動します。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 海蔵寺 は1394年(応永元年)の建立。 開山は 心昭空外(源翁禅師) 、開基は 上杉氏定 。 山号は扇谷山 。 底脱ノ井 門前の湧き水は 鎌倉十井 の一つ 底脱ノ井 。 仏殿 (薬師堂) 本尊の薬師如来 鎌倉十三仏詣の霊場の一つである海蔵寺の本尊の薬師如来像は、坐像の胴体部分に、もう一つの薬師の顔を納めた珍しい仏像で、別名啼薬師または児護薬師と呼ばれている。 胎内の像を拝観できるのは、61年に一度とされている。 庫裡 江戸時代建立の茅葺の庫裡は、鎌倉の寺院を代表する庫裡建築である。 カイドウ 鎌倉の 三大カイドウ には含まれないが、まだ若木だが枝振りがよく、勢いのある見事な花を枝いっぱいにつける。 十六ノ井 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~殺生石の伝説~ 宮中で、宴を開いていると急に屋敷が鳴動し、帝に侍っていた玉藻前が金色の光を発した。 鳥羽天皇は気絶し、以来重い病にかかってしまった。 玉藻前は実は狐の化身で、これがばれると逃げ去った。 追っ手が那須野で射殺すると、帝の病も快癒した。 ところが、那須野でこの霊が石と化し、その石に触れた生き物はみんな死んでしまう ので、殺生石として恐れられるようになった。 そこで、源翁禅師という禅師号をもつ 海蔵寺の開山 心昭空外 が経を読みながら鉄の杖で一撃を加えると、法力で殺生石は砕け散り、災いも止んだ。 この伝説がもとで、金槌を「げんのう」とも呼ぶようになったという。 真如堂の地蔵堂 (京都) 京都の 真如堂 にある石造地蔵尊は 鎌倉地蔵 と呼ばれ、源翁禅師が叩き割った殺生石の一つで刻まれたものといいます。 江戸時代に鎌倉から真如堂に移されたのだとか。 参考までに・・・ 那須野に逃げた狐は、 三浦義明 の矢で脇腹と首筋を貫かれ、 上総広常 の長刀でとどめを刺されたのだということです。 海蔵寺 https://www.yoritomo-japan.com/page137kaizoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉検定で楽しむ英勝寺

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鎌倉検定の過去問と情報! ※太字は鎌倉検定の問題文より。 写真をクリック・タップすると情報ページへ移動します。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 現在では鎌倉唯一の尼寺となった英勝寺は、代々水戸徳川家の姫君が住職を務めたため、水戸御殿と呼ばれていました。 ただ・・・ 六代の清吟尼を最後に水戸家からの住持は絶え、徳川家の支援によって維持されていたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2013年(平成25年)、境内の仏殿・山門・鐘楼・祠堂・祠堂門を1件として、国の重要文化財に指定されました。 山門 讃岐高松藩主松平頼重(徳川光圀の兄)によって建立されました。 鐘楼 寛永20年銘(銘文:林道春)の梵鐘が吊るされています。 仏殿 本尊は徳川家光の寄進で 運慶 作と伝わる阿弥陀如来。 祠堂 英勝寺の開基・英勝院の位牌を安置する堂(徳川光圀建立)。 唐門 祠堂の門(徳川光圀建立)。 竹林 竹林がある場所には、代々の住職を勤めた水戸徳川家の姫君の住まいがありました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『新編鎌倉志』 (鎌倉歴史文化交流館) 1674年(延宝2)、徳川光圀一行は、上総から船で金沢に渡って、旧金沢文庫が収められているという 称名寺 などに立ち寄ってから、鎌倉七口のひとつ 朝夷奈切通 を経て鎌倉に入って、水戸藩ゆかりの 英勝寺 に宿泊して各所を巡見した。 『新編鎌倉志』は、徳川光圀が家臣に編纂させた鎌倉の地誌で、このときの旅を基に編纂されました(1685年(貞享2年)刊行)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 侘助 覚園寺の太郎庵と英勝寺の侘助は、鎌倉市の天然記念物のツバキ。 ヤマブキ 扇谷上杉氏に仕えた武将太田道灌は、雨に降られて農家に立ち寄り、蓑(雨具)を借りようとして、農家の娘が差し出すヤマブキの花の意味が分からず憮然として帰ったが、後に、娘が「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」という和歌にことよせて農家の貧しさを奥ゆかしく告げるものであったと知る。 その後、自分の教養のなさを恥じて、和歌の道にも親しんだという。 太田道灌の旧居跡にその子孫が建立した尼寺英勝寺の本堂脇には、この故事にちなみヤマブキが今も植えられている。 太田道灌首塚 英勝寺は戦国武将・太田道灌の旧蹟