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11月 13, 2011の投稿を表示しています

東海道藤沢宿

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鎌倉時代から 遊行寺 (清浄光寺)の門前町として栄えてきた藤沢は、1601年(慶長6年)に東海道の宿場となりました。 1596年(慶長元年)には、徳川家康によって「藤沢御殿」が築かれ、家康も1634年(寛永11年)までに28回宿泊したといいます。 時宗総本山 遊行寺 の総門 黒塗の冠木門は、日本三大黒門と呼ばれています。 東海道分間延絵図  東京国立博物館蔵 中央が 遊行寺 。境川を挟んだ西側の小山が藤沢御殿。さらにその西側が 源義経 を祀る 白旗神社 です。 遊行寺橋 遊行寺 門前の境川に掛けられた橋。 かつてこの橋を大名行列が渡ったのだといいます。 「かながわの橋100選」の一つです。 東海道五十三次「藤沢宿」 鳥居の左側が遊行寺橋、上の山が 遊行寺 。 藤沢宿は、 江の島 参詣の旅人でも賑わいました。 歌川広重の東海道五十三次「藤沢宿」には、鳥居が描かれています。この鳥居が江の島道の始点となりました。 歌川広重の浮世絵 こちらの絵にも鳥居が描かれています。 (参考: 江の島参詣道(遊行寺~片瀬~江の島) ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 藤沢宿には、本陣と旅籠が49軒あったといいます。 飯盛女の墓 永勝寺には、藤沢宿の飯盛旅籠「小松屋」に抱えられていた飯盛女の墓が39基あります。 (参考: 飯盛女の墓~藤沢:永勝寺~ ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 藤沢宿は、鎌倉へと向かう旅人でも賑わいました。現在でも旧鎌倉道が残されています。 鎌倉の歴史と関係の深い寺社も多くあります。 源頼朝 は、藤沢に三嶋大明神を勧請しました(参考: 感應院 ) 源実朝 が宋へ渡ろうとしたときに用材を伐採した所が藤沢の大鋸だったといいます(参考: 船玉神社 )。 源義経 の首が葬られたのが 白旗神社 付近だったと伝えられています(参考: 源義経の伝説を巡る旅 )。 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

紅葉の古都鎌倉めぐり~のんびりハイク&ウォーク~

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江ノ電鎌倉駅 を出発して・・・ 亀ヶ谷坂 → 浄智寺 ・・・ 葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース ・・・ 葛原岡神社 → 銭洗弁財天 → 佐助稲荷神社 ・・・ 葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース ・・・ 高徳院(鎌倉大仏) → 長谷寺 と巡ります。 江ノ電長谷駅 がゴールです。 時間内にゴールすると参加賞が貰えます。 (※受付は小田急線藤沢駅です。) 「江の島・鎌倉フリーパス」 か 「のりおりくん」 を使うと便利です。 ( 長谷寺 では、記念品が貰えます。) 鎌倉:紅葉・黄葉の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/koyo-kamakura.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

安達泰盛と平頼綱の対立~霜月騒動~

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1285年(弘安8年)11月17日、有力御家人 安達泰盛 と内管領平頼綱が対立し、鎌倉市中で激戦が繰り広げられました( 霜月騒動 )。 (※ 内管領 とは、 北条得宗家 の執事のことで、幕府の職ではありません。) この事件によって、 安達泰盛 が滅び、 北条得宗家 に対抗できる有力御家人は潰滅しました。 以後、 北条得宗家 被官による政治が行われることとなります。 甘縄神明神社 安達氏の館 は、甘縄にあったと伝えられています。 ~霜月騒動~ 1284年(弘安7年)4月4日、八代執権 北条時宗 が死ぬと、3ヶ月の空位期間をおいて、7月7日に幼い 貞時 が執権となります。 安達泰盛 は 貞時 の外祖父。 得宗 専制の体制が強化されていく中で、 得宗 体制を抑制する改革を行います。 一方、 北条得宗家 の身内人として 時宗 の代から仕え、 貞時 の乳母夫を務めた平頼綱は、 内管領 という要職にありました。 時宗 の死後、政治的背景を異にするこの二人が対立し、徐々に深刻化していきます。 そして、1285年(弘安8年)11月17日、ついに武力衝突に至ります。 頼綱は、まだ幼い 貞時 に、 「 泰盛 の子宗景は、父祖の 景盛 が右大将家( 源頼朝 )の子であったとして「源氏」を称しています。 これは自分が将軍になるためかと思われます」 とたきつけ、一挙に 泰盛 とその一族の討伐にふみきったのだといいます。 激戦は鎌倉の各所で起こり、 泰盛 と嫡子宗景が討たれ、上野・武蔵一帯の有力御家人500余人も討たれています。 泰盛 の婿だった金沢顕時も逮捕され、上総の埴生荘に幽閉されました。 各所での激戦は、ほぼ同時に行われていると思われ、頼綱による計画的な攻撃だったと考えられています。 霜月騒動 は地方にも広がり、肥後守護として九州にいた安達盛宗( 泰盛 の子)が博多で討たれ、少弐景資が筑前の岩門城で討たれています。 二人ともに蒙古との戦いでは、九州御家人の指揮官として働いた人物でした。 蒙古襲来絵巻 安達泰盛 と恩賞を求めて鎌倉に来た竹崎季長。 ~御家人安達氏~ 安達氏 は、 源頼朝 以来の御家人で、家祖の盛長は、 頼朝 の乳母 比企尼 の娘婿で、伊豆国の時代から 頼

秋の文学スタンプラリー~2011鎌倉文学館~

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鎌倉では、秋の文学スタンプラリーが開催されています。 スタンプ設置場所は、 円覚寺 ・ 建長寺 ・ 鶴岡八幡宮 ・ 高徳院 ・ 長谷寺 ・ 鎌倉文学館 。 北鎌倉駅から 円覚寺 ~ 建長寺 ~ 鶴岡八幡宮 と歩いて、 源氏山の紅葉 を楽しんでから 葛原岡・大仏ハイキングコース をハイキング。 そして、 高徳院 ・ 長谷寺 を巡ってゴールの 鎌倉文学館 というコースはいかがでしょう。 (※ 鎌倉の紅葉 は、11月下旬頃からかと思われます。また、 長谷寺 では19日(土)から 紅葉ライトアップ が始まります。) 鎌倉文学館 では、特別展「芥川龍之介と久米正雄」が開催されています。 ※ 鎌倉藤沢スタンプラリー も開催されています。 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

護良親王(大塔宮)の失脚

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護良親王 は、 後醍醐天皇 の皇子。 比叡山延暦寺 に入り大塔宮とも呼ばれています。 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕のための元弘の乱を起こすと、護良親王は還俗して倒幕運動に参戦します。 その後、 足利高氏 (尊氏)、 新田義貞 の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡します(参考: 鎌倉幕府の滅亡 )。 後醍醐天皇 『太平記』によると・・・ 護良親王 は、幕府滅亡後も大和信貴山の毘沙門堂にあって、兵を集めていたといいます。 後醍醐天皇は、 「天下も静まったのだから兵を集めるのはやめ、すみやかに出家剃髪して 叡山 座主として行に専念するように・・・」 と勅使を送っています。 これに対し 護良親王 は、 「 足利高氏 は、わづかに一戦の功をもって万民の上に立ち権勢を得ようとしています。 まだ勢力の小さいなうちに討たなければ、 北条高時 よりも強大な敵になりかねません・・・」 と答えたといいます。 その後、護良親王は征夷大将軍に任ぜられ入京していますが、後醍醐天皇は高氏の討伐は理由がないとして退けています。 足利尊氏 そして、 高氏 は、鎌倉幕府討滅の勲功第一として、鎮守府将軍に任ぜられ、30ヶ所の所領を与えられました。 しかも、後醍醐天皇の諱「尊治」の一字をもらい 「尊氏」 と改名しています。 一方、六波羅潰滅に尽力した赤松一族は、少ない恩賞に終わっています。これは赤松一族が護良親王に近い存在だったからともいわれています。 これより以前、後醍醐天皇が隠岐にいる頃、 護良親王 は後醍醐天皇の代理と称して、従う武士たちに所領安堵などを行っていたようですが、後醍醐天皇が京に戻ると護良親王の措置を一切無視したということです。 すでに後醍醐天皇と護良親王との間には深刻な対立があったということなのでしょう。 護良親王 さて、『太平記』によると・・・ 征夷大将軍となった 護良親王 は、尊氏討伐の名目で兵を召し抱え、その数を増やしていきます。 そして、集められた兵は、夜な夜な京白河あたりをうろついて辻斬りをしていたといいます。 では、何故、 護良親王 は 尊氏 を憎んだのでしょう? 六波羅探題 が 尊氏 や赤松円心らによって落とされた

源頼朝と伊豆の国

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伊豆という地方は、律令法においては流刑の地でした。 古代の伊豆国は、生産力が低く「下国」と呼ばれ、国力に応じて分けられた階級のうち、一番低い位の国だったといいます。 平治の乱 で 平清盛 に敗れた 源頼朝 も、古代国家の規定によって伊豆国に流されています。 平清盛は、 頼朝 を処刑する予定でしたが、継母 池禅尼 の懇請で伊豆に流したのだと伝えられています(参考: 平清盛と源頼朝 )。 しかし、処刑するか否かは別として、源氏の嫡流を伊豆に流したというのは、どうも失敗だったようです。 なぜなら、 頼朝 が流された頃の伊豆国は、律令制が始まった時代とは大きく変わっていたのではないでしょうか。 温暖な気候に恵まれ、海の幸も豊富だったでしょうし、現地の豪族が開発して耕地を開いていたと考えられます。 さらに伊豆の東側の関東では、 三浦氏 、 千葉氏 、 上総氏 、 畠山氏 といった豪族が、広大な土地を切り開き、その領域を広げ、大きな勢力として成長を遂げていたと思われるからです。 伊豆の国市韮山 頼朝 は、1160年(永暦元年)、伊豆国の 蛭ヶ小島 に流されたといわれています。 現在は、その地と思われる韮山の田園地帯の真ん中に 頼朝 と 政子 の像が建てられています。 (参考: 平治の乱・・・伊豆流罪となった源頼朝 ) 蛭ヶ小島 頼朝 は、約20年間を伊豆で過ごします。 そして、 北条時政 の娘 政子 と結婚します。 いつ結婚したのかは分かりませんが、長女大姫が1178年(治承2年)頃に生まれていると考えられるので、その少し前なのでしょう。 伝説の中には、「時政は娘の結婚に反対して、目代山木兼隆に嫁がせようとした」いうものもあるようですが・・・ 兼隆は、1179年(治承3年)に犯罪人として伊豆に流されてきた人物で、目代となったのは1180年(治承4年)のことです。 当時伊豆の知行国主は源頼政、子仲綱と引き継がれたいたようです。 しかし、頼政が以仁王とともに平氏打倒の挙兵をしたため免ぜられ、代わって、平時忠が国主に任ぜられ、目代に山木兼隆という具合になったようです。 したがって、兼隆と政子の結婚という事実はなかったものと考えられます。 八重姫主従七女の碑 (真珠院)

鎌倉長谷寺の地蔵堂

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長谷寺 に帰依する人々の発願で建立されたという地蔵堂。 現在の建物は平成15年に建て替えられました。 地蔵堂 地蔵堂は、観音堂への石段の途中にあります。 かつてこの辺りには、 阿弥陀堂 があったのだといいます。 堂内の地蔵尊は、子安・繁栄にご利益のある「福壽地蔵」。 千体地蔵 卍池 「卍」(まんじ)は幸運のシンボルなのだそうです。 長谷寺 https://www.yoritomo-japan.com/page136hasedera.htm

程農化二胡コンサート・・・鎌倉の紅葉に魅せられて~妙本寺~

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妙本寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043myohonji.htm 鎌倉:紅葉・黄葉の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/koyo-kamakura.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html