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源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・(石橋山)~

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1180年(治承4年)8月17日に挙兵し、伊豆国の目代山木兼隆を討った 源頼朝 は、8月20日、伊豆国を出て相模国に進軍します(参考: 源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃 )。 石橋山古戦場 (小田原市) 『吾妻鏡』によると、 頼朝に従った武将は以下のとおり。 北条時政 北条宗時 北条義時 北条時定 北条時政 は、 頼朝 の妻 政子 の父。 宗時・ 義時 は時政の子。時定は 時政 の甥とも、従兄弟ともいわれている人物。 宗時は、 石橋山の合戦 で討死(参考: 北条宗時の墓 )。 安達盛長 頼朝 の乳母 比企尼 の娘を妻とし、流人時代の頼朝を支えた人物。 頼朝 と 政子 との縁を取り持ったともいわれています。 工藤茂光 工藤親光 宇佐見助茂 土肥実平 土肥遠平 実平は、現在の湯河原町・真鶴町を本拠としていた武将。 石橋山 での敗北後、 頼朝 を手引きして真鶴から安房に渡ります(参考: 源頼朝船出の浜 ) 土屋宗遠 土屋義清 土屋忠光

源頼朝挙兵の日

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平治の乱 の敗北によって、伊豆 蛭ヶ小島 に流されていた 源頼朝 は、1180年(治承4年)8月17日に平氏打倒の 挙兵 をします。 まずは、伊豆国の目代 山木兼隆 を討つことになるのですが・・・ 蛭ヶ小島 『吾妻鏡』によると・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~挙兵の日の決定~ 8月6日、 頼朝 は、藤原邦通と住吉昌長を呼んで占いをしています。 その結果、挙兵の日を8月17日早朝と決定しました。 そして、工藤茂光、 土肥実平 、 岡崎義実 、宇佐見祐茂、天野遠景、佐々木盛綱、 加藤景廉 などを順番に部屋に呼んで、合戦の事を教え、「汝らを頼りにしている・・・」という言葉をかけました。 これは、皆を心を一つして行動させるための 頼朝 の作戦でした。 本当のことは、 北条時政 しか知らなかったのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~合戦前日~ 合戦の前日は一日中雨でした。 佐々木四兄弟 には、この日に到着するよう言ってありましたが、未だに到着していません。 頼朝 は、人数が集まらないので、明日の合戦を躊躇していたといいます。 しかし、日延べするにしても・・・ 18日は、幼児のころから観音さまを祀って祈る日となっていますので、合戦はできません。 19日になれば、密事が世間にばれてしまうでしょう。 そして、佐々木四兄弟は、平家の家人 渋谷重国 に面倒をみてもらっているので、彼らに密事を漏らしたことを後悔したのだとか・・・。 📎 観音信者だった源頼朝 早川城址 (綾瀬市) 早川城は、渋谷重国の居城です。 重国は、 平治の乱 後、 奥州 へ逃れようとする佐々木秀義と、子の 定綱 ・ 経高 ・ 盛綱 ・ 高 綱 の四兄弟を匿っていました。 頼朝 の弟 阿野全成 も匿われていたといいます。 (参考: 渋谷重国と佐々木四兄弟~石橋山の合戦~ ) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~合戦の日~ 8月17日の午後になって佐々木四兄弟が到着しました。 定綱 と 経高 は疲れた馬で、 盛綱 と 高 綱 は徒歩での到着です。 頼朝 はとても喜びます。 そして、涙を浮かべながら、 「お前達の遅刻で、予定していた今朝方の合戦が出来なかった。残念で

流鏑馬と河村義秀の逸話・・・鶴岡八幡宮

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1190年(建久元年)8月の 鶴岡八幡宮 の 放生会 は、この年より2日間に分けて行われています。 流鏑馬 は、2日目の8月16日に行われました。 『吾妻鏡』によると・・・ この日の 流鏑馬 の射手のうち、具合が悪くなった者が出ました。 その時に 大庭景義 が・・・、 「1180年(治承4年)、石橋山で 大庭景親 に味方した河村三郎義秀は、囚人として景義が預かっております。 義秀は、弓馬の芸に優れた者です。 あの時に敵対した連中の殆どが許されましたが、義秀だけが深く沈んだままとなっております。このような時に召し出してみてはいかがでしょう?」 と 頼朝 に申し上げました。 すると 頼朝 は・・・、 「その者は死罪に処すよう命じたはずである。 今、生きているというのは不思議な話だ。 しかしながら、神事であるので、早く召し出すように。 ただし、満足することができなければ、改めて死罪とする」 と命じ、義秀に 流鏑馬 を射させました。 頼朝 が義秀の放った矢をみると、矢の長さは十三束、鏑は八寸もありました。 そこで 頼朝 は・・・、 「義秀は、弓矢の芸にうぬぼれて、景親に味方したことは、 その罪を考えると、今でもとんでもないことである。 その腕で、三種類の的を射るように。 失敗すれば、すぐに死刑を執行する」 と命じます。 義秀は、その弓矢の芸を披露します。 そして、三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き、 頼朝 を感心させました。 後日(9月3日)・・・ 大庭景義 が 頼朝 に、 「河村義秀は、打ち首にしましょうか?」 と申し上げます。 すると頼朝は、 「流鏑馬の褒美に許したのに、今さら何の罪にできるのだ」 と問います。 景義が申すには・・・ 「義秀は、これまでは囚人でしたので景義が援助していましたが、 囚人でない者を助けようがありません。 このままでは餓死してしまうでしょう。 殺してあげた方が義秀にとってはよいのではないでしょうか」 とのことでした。 頼朝 は、大笑いして、相模国河村郷の所領を安堵したといいます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (流鏑馬に残された逸話) ★ 熊谷直実

相撲を奨励した源頼朝

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相撲は、古来より神道における神事として行われてきました。 また、武芸でもあります。 鎌倉時代にも盛んに行われた神事・武芸でした。 鶴岡八幡宮 では、 流鏑馬 、競馬(くらべうま)などとともに行われていたようです。 ~頼朝、上覧相撲を催す~ 『吾妻鏡』によれば・・・ 1189年(文治元年)4月3日、 源頼朝 は 鶴岡八幡宮 で相撲を催しています。 これが、将軍上覧相撲のはじまりといわれています。 頼家 、 実朝 も相撲見物を楽しんでいたようです。 ~河津祐泰VS俣野景久~ 『曾我物語』によれば・・・ 1176年(安元2年)、伊豆に流されていた 源頼朝 を慰めるための「狩猟」が催されました。 その折の余興で相撲が行われます。 相撲の名手といわれた俣野景久は21連勝し、最後の挑戦者が力自慢の河津祐泰でした。 河津祐泰は、連勝の俣野景久を、のちに「河津掛」と呼ばれる技で破ったといいます。 (参考) 河津祐泰は、この狩りの帰路、工藤祐経によって殺されています。 所領争いが原因だったといわれています。 祐泰の父は伊東祐親、子には、「曾我兄弟の仇討ち」で名を残した十郎祐成・五郎時致の兄弟がいます(参考: 相模の武将「曾我兄弟」 )。 一方負けた俣野景久は、 石橋山の合戦 での 佐奈田与一義忠 との死闘で知られてます。 (参考: 俣野観音堂 ) 河津祐泰の墓 (伊東市東林寺) ~畠山重忠、対戦相手の肩を砕く!~ 『古今著聞集』によれば・・・ 怪力 畠山重忠 は、 源頼朝 から東国最強といわれた長居という力士との対戦を命じられます。 このとき、重忠は、金剛力をふるって長居の肩を砕いたと伝えられています。

流鏑馬と諏訪盛澄の逸話・・・鶴岡八幡宮

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1187年(文治3年)8月15日、 鶴岡八幡宮 では放生会が催され、 流鏑馬 が奉納されました。 (これが、 鶴岡八幡宮例大祭 の始まりといわれています。) 『吾妻鏡』によれば・・・ 射手は五騎馬。 一番  射手 長江太郎義景 二番  射手  伊沢五郎信光 三番  射手 下河辺庄司行平 四番  射手 小山千法師丸 五番  射手  三浦平六義村 的にあたらない者はなく終了しました。 しかし、その後珍事が起こります。 諏訪大夫盛澄という者が召し出され、 流鏑馬 を射るよう命じられます。 盛澄は、 流鏑馬 の芸を極めた人物で、藤原秀郷の秘伝を伝えているといいます。 平家に仕え京都に住んでいたときは、城南寺の流鏑馬などに出ていました。 そんな理由から、 源頼朝 のもとに参上するのが遅れたため、囚人として扱われていました。 しかし、 流鏑馬 の一流が途絶えてしまうことから処刑は免れ、長年、囚人として閉じこめられていたようです。 頼朝 は、この日、盛澄を召し出します。 そして、 流鏑馬 を射るよう命じます。 盛澄は厩一の悪馬を賜り、騎乗します。 すると、厩の舎人(管理者)が、 「この馬は、的の前で必ず右の方を走ります」 と盛澄に告げたといいます。 馬はそのとおり一の的の前で右に寄りますが、盛澄は生来の武芸の達者ですので、押し直して的に命中させ、全ての的をはずしませんでした。 次に、小さな土器の皿を五寸の串に挟んだ的を3つ立てますが、これも全て射抜きます。 さらに、残った串を全て射抜くよう命じられます。 盛澄は、囚人として既に観念はしていましたが、 心の中で諏訪大明神に祈念し、 鶴岡八幡宮 の瑞垣の方を拝み、神霊に仕えることが出来るならば今一度擁護してくれるよう祈ります。 その後、鏃を平らにねじり回して残された串を射ます。 そして、五寸の串の全てを射切り、観ていた者を感動させました。 頼朝 は直ちに盛澄の罪を許すよう命じたといいます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (流鏑馬に残された逸話) ★ 熊谷直実   ★ 諏訪盛澄   ★ 河村義秀 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬 ・・・・・・・

まちの駅鎌倉

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由比ガ浜大通りの 「まちの駅鎌倉」 。 7月7日にオープンしたそうです。 まちの駅鎌倉 「まちの駅」とは、 「まちの駅連絡協議会」の認定を受けた施設で、 無料でトイレ・休憩場所が利用でき、 観光案内など様々な情報を発信する施設のこと。 営業時間は10:00~17:00 (月曜日は休み) 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

2011鎌倉夏景色:七里ヶ浜

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日坂 http://okadosblog.blogspot.com/2010/09/blog-post.html 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

2011鎌倉夏景色~腰越海岸・小動岬~

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腰越海岸から片瀬東浜海岸 まだ8時前ですが、かなりの人出です。 https://www.yoritomo-japan.com/umi-kosigoe.htm 腰越海岸の海の家 パラソルがタイのビール「シンハー」。 タイ料理やタイ古式マッサージがあるらしい。 http://kula-resort.com/ 腰越の鎮守小動神社 https://www.yoritomo-japan.com/page139koyurugi.htm  「ほっかむり」した狛犬   展望台からの景色 浄泉寺 https://www.yoritomo-japan.com/page139jyosenji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

主馬盛久頸座~鎌倉に残された親子の伝説~

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「主馬盛久頸座」は、 由比ガ浜大通り にある史跡で、 平清盛 の側近平盛国の子盛久が処刑されそうになった場所と伝えられています。 1185年(元暦2年)3月24日、平家が 壇ノ浦 に滅びます。 盛久は戦場から逃亡し、翌年、京都で捕らえられ鎌倉へ送られてきました。 そして、1186年(文治2年)6月28日、 由比ヶ浜 で処刑されるはずでしたが・・・ 役人の振りかざした太刀が折れてしまうという不思議な現象が起きたため、処刑は中止されます。 盛久は、京都 清水寺 の観音菩薩を信仰していました。 「観音菩薩の加護で刀が折れて処刑することが出来なかった」という報告を受けた 源頼朝 は、盛久の罪を許したといいます。 そういえば・・・ 頼朝 も京都 清水寺 から下された聖観音像を守り本尊としていました。 (参考: 源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~ ) 謡曲「盛久」 清水寺 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera.htm さて、盛久の父盛国はどうなったのでしょう? 盛国は、 壇ノ浦の戦い 後捕らえられ、平家の総大将平宗盛とともに鎌倉へ送られてきます。 『吾妻鏡』によると・・・ 盛国は命を助けられ 岡崎義実 に預けられていました。 日夜無言のまま法華経を唱えていたといいます。 そして、断食をしたまま、1186年(文治2年)7月25日に亡くなりました。 このことを聞いた 頼朝 は、法華の持経者を死なせてしまったことを恥じたそうです。 そういえば・・・ 頼朝 は、「法華八軸の持者」と呼ばれるほど、法華経を信仰していた人でした。 (参考: 源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~ ) この親子、もしかして「鎌倉で再会していた」ということもあるのでしょうか・・・? 主馬盛久頸座 https://www.yoritomo-japan.com/page136morihisa.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆