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5月 28, 2023の投稿を表示しています

鎌倉夏まつり~2023五所神社例大祭~

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6月第二日曜日は材木座の 五所神社の例大祭 。 ☆宵宮 6月10日(土) 18:00から神輿渡御 ☆例大祭 6月11日(日)10:00~ 11:00から神輿渡御 海上渡御は15:00頃からの予定 乱材祭 五所神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

葛原ヶ岡で処刑された日野俊基

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1324年(正中元年)、鎌倉幕府に反感を抱いていた 後醍醐天皇 の倒幕計画が発覚し、 後醍醐天皇 の側近日野資朝と 日野俊基 が 六波羅探題 に捕らえられ、鎌倉へ送られています(正中の変)。 このときは、資朝が佐渡流罪、俊基は無罪放免となりました。 後醍醐天皇 には何の処分もありませんでした。 しかし、 後醍醐天皇 はその後も倒幕を計画します。 1330年(元徳2年)頃になると、寺社の武力を味方に付けるため、 東大寺 、 興福寺 、 比叡山 などに参詣しています。 しかし、1331年(元弘元年)、またもや計画が幕府に漏れ、円観・文観・忠円が 六波羅探題 に捕らえられ、鎌倉へ送られました(元弘の変)。 拷問にかけられた文観は、 後醍醐天皇 の命により、幕府調伏の祈祷を行っていたことを白状し、忠円も比叡山を味方に付けようとしていたことなどを白状したといいます。 文観は硫黄島、忠円は越後、円観は陸奥へ流罪となりました。 翌1332年(元弘2年)には、正中の変で佐渡流罪となっていた日野資朝が処刑され、元弘の変で再び捕えられて鎌倉に送られてきた 日野俊基 が葛原ヶ岡で処刑されています。 後醍醐天皇 は隠岐流罪となりました。 日野俊基の墓 『太平記』には、 日野俊基 の家臣後藤左衛門尉助光が、俊基夫人の手紙を届けたことが記されています。 後藤左衛門尉助光は、俊基の妻の手紙を持って鎌倉に来ましたが、幕府の警戒が厳しくなかなか渡せずにいました。 処刑の日、俊基の乗り物が 仮粧坂 にさしかかったとき、役人に懇願してやっと渡すことができたのだといいます。 『太平記』は処刑の様子を次のように記しています。 「俊基畳紙を取出し、頸の廻りを押拭い、其紙を推開いて、辞世の頌を書き給う。古来一句、無死無生、万里雲尽、長江水清と筆を差置きて、鬢の髪をなで給う程こそあれ、太刀影後に光れば、首は前に落ちけるを、自ら抱て伏給う」 葛原岡神社 1887年(明治20年)、明治天皇によって創建された神社です。 祭神は 日野俊基 。 日野俊基終焉の地 「秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん」 日野俊基の辞世の歌です。 葛原岡神社 では、俊基の命日にあたる6月3日に 例祭 が行われます。

織田信忠が自刃した二条殿~本能寺の変~

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1582年(天正10年)6月2日早朝、明智光秀の謀反により 本能寺 で織田信長が自刃すると、嫡男の信忠は 二条殿 に籠城。 そして自刃。 二条殿は誠仁親王の居所となっていたことから二条新御所と呼ばれていました。 誠仁親王は脱出しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2023長尾の里あじさいまつり~阿野全成・源頼朝ゆかりの川崎:妙楽寺~

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妙楽寺 は川崎のあじさい寺。 阿野全成 が 源頼朝 から与えられた長尾寺と関係があるのだと考えられています。 毎年6月の第三日曜日に「長尾の里 あじさいまつり」が開催されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

織田信長自刃の地~本能寺跡~

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1582年(天正10年)5月29日、羽柴秀吉援軍のため 安土城 を出た織田信長は 本能寺 へ。 6月1日、丹波国亀山で明智光秀が謀反の挙兵。 翌早朝、本能寺を包囲。 森蘭丸から光秀の謀反を知らされた信長は、「是非に及ばず」と言い残して自害したのだと伝えられています。 当時の本能寺は寺町御池ではなく、堀川四条付近にありました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉アジサイ情報!長谷寺のあじさい散策路2023/06/01

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長谷寺のあじさい散策路は5分咲きとなり、6月1日から有料となりました。 あじさい散策路に入らなくてもアジサイは楽しめます。 ハナショウブ 沙羅双樹 長谷寺アジサイ物語 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉アジサイの名所