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6月 18, 2023の投稿を表示しています

2023鶴岡八幡宮の七夕祭

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鶴岡八幡宮 の 「七夕まつり」 は、7月1日から7日。 7月2日(日)ハーフムーン 神賑奉納 午後5時~ 7月7日(金)七夕祭神事 午後5時~ 7月1日~7日鈴懸神事 午前10時~午後4時 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

松平信康の助命嘆願をした平岩親吉

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徳川家康 の嫡男・ 松平信康 の守役だった 平岩親吉 。 1579年(天正7年)、織田信長は、家康に信康を切腹させるよう命じます。 親吉は守役としての責任から、自らの首を信長に差し出すことで、信康の助命を願ったのだですが、願いは叶わず・・・ 信康は9月15日、 二俣城 で切腹させられました。 二俣城 (浜松市) 当時・・・ 信康が城主だった 岡崎城 では、 大岡弥四郎 が謀反を起こし処刑され、 長篠の戦い後 には、家康の伯父 水野信元 が武田に内通したとして 大樹寺 で誅殺されています。 信康と母の築山殿も信康の正妻・ 徳姫 (信長の娘)に武田内通を讒訴されました。 築山殿 は8月29日に殺害されています。 松平信康廟 (浜松市:清瀧寺) 清瀧寺 の信康の霊廟には、殉死した吉良初之丞、二俣城主だった大久保忠世、 三方ヶ原の戦い で討死した中野正照・青木吉継の墓もあります。

壬申の乱・承久の乱・関ケ原の戦い~関ヶ原古戦場~

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671年(天智天皇10年)、天智天皇が崩御すると、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)が皇位継承問題で対立。 大海人皇子は後継を辞退して 吉野 に下っていましたが、翌年、美濃国の不破へ向けて出陣(壬申の乱)。 大海人皇子が勝利し、翌673年(天武天皇2年)、飛鳥浄御原に遷都して即位します(天武天皇)。 大海人皇子野上行宮跡 壬申の乱の際に大海人皇子が本営とした地が 関ヶ原 の野上宿。 不破関跡 そして、翌年、飛鳥浄御原宮を守るために設置されたのが 関ヶ原 の不破関。 1221年(承久3年)の 承久の乱 の際、 後鳥羽上皇 は不破関を守らせたのだと伝えられています。 桃配山 1600年(慶長5年)の 関ヶ原の戦い で 徳川家康 が陣を敷いた桃配山の名は、大海人皇子が村人から献上された桃を兵たちに配ったことによるのだとか。 園城寺 園城寺 は、壬申の乱で敗れた大友皇子の子・大友与多王が、天武天皇の許可を得て創建した寺。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

小田原城~土肥遠平・大森氏・小田原北条五代~

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小田原城は、 源頼朝 の挙兵に参じた 土肥実平 の子・遠平の小早川城を始まりとするらしい。 戦国時代になると大森氏の城となるが、1495年(明応4年)、 北条早雲 (伊勢盛時)が奪取。 以後、小田原北条氏(後北条氏)の拠点となりました。 三代 北条氏康 の時代には難攻不落の城といわれ、1561年(永禄4年)の 上杉謙信 の攻撃や、1569年(永禄12年)の 武田信玄 の攻撃にも耐えました。 その後、関東支配の拠点として拡張された城は、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による 小田原攻め のときには、城下町を囲む長さ9㎞の 総構 となり、その規模は最大に達しています。

徳川秀忠誕生の井戸~浜松市~

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江戸幕府二代将軍・徳川秀忠が誕生したときに産湯として使用した井戸を復元したもの。 秀忠の生母は、徳川家康の側室・ 西郷局 (お愛の方)。 徳川秀忠誕生井戸 浜松城

高月院~戦国大名松平氏の菩提寺:松平郷~

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高月院 は、戦国大名松平氏の始祖・松平親氏の菩提寺。 親氏の岳父・在原信重(松平信重)が創建しました。 開山は足助氏の一族・見誉寛立。 参考までに、足助氏の祖重長(加茂重長)の娘は、鎌倉幕府二代将軍 源頼家 の正室となっています。 中央が松平氏の始祖である親氏、右が二代泰親・左が四代親忠夫人の墓塔。 親忠夫人(閑照院)は、七代住持の存牛(そんぎゅう)の実母。 高月院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆