投稿

3月 5, 2017の投稿を表示しています

的立役を断った熊谷直実~鶴岡八幡宮の流鏑馬~

イメージ
熊谷直実は、武蔵国熊谷郷の武将。 石橋山の合戦 では 源頼朝 に敵対しますが、その後、 頼朝 に仕え、佐竹討伐、 一ノ谷の合戦 で活躍しました。 特に、 一ノ谷の合戦 では、 源義経 の鵯越に従い、平敦盛を討った武将として知られています。 熊谷直実像 (JR熊谷駅前) 『吾妻鏡』によれば・・・ 1187年(文治3年)8月4日、 源頼朝 は、 鶴岡八幡宮 の 放生会 で奉納される 流鏑馬 の射手と的立役を指名します。 (※ 鶴岡八幡宮 の 放生会 は、この年から始まったといわれ、 流鏑馬 が奉納されています。) 直実は上手(かみて)の的立役を命ぜられました。 怒った直実は 頼朝 に、 「御家人は皆同輩のはず。 それなのに、射手は騎馬、的立は徒歩。 すでに、勝敗をつけたようなもの。 このような命令に従うことは難しい。」 と申し上げました。 これに対して 頼朝 は、 「この役目は、身の器をわきまえて命じていることである。 勝敗を分けたものではない。 とりわけ、的立役は下職ではない。 新日吉神社に法皇がお越しのときは、 貴族の侍衆が流鏑馬の的を立てられた。 その起源からすれば、まるで射手の役を越えている。 早く役目を受けるように」 と的立役が名誉ある役目であることを説いたといいます。 しかし、直実は承知しなかったので、所領を減封されました。 「一所懸命」の武士の所領を没収するのですから、 頼朝 の怒りも大変なものだったと思われます。 弓の名手であったという直実。 射手をはずされ、的立役に指名されたことは、屈辱的だったのかもしれません。 何より騎馬で登場できず、徒歩というのが不満だったのでしょう。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北鎌倉:建長寺の仏殿・地蔵菩薩・伽藍神像

イメージ
『吾妻鏡』によれば・・・ 建長寺 の建立は1251年(建長3年)11月8日に事始め。 2年後の1253年(建長5年)11月25日に開眼供養。 仏殿には、本尊・丈六の地藏菩薩と千躰地蔵が安置されました。 創建者は5代執権・ 北条時頼 。 開山は 蘭渓道隆 。 仏殿 現在の 仏殿 は、1647年(正保4年)、芝 増上寺 の徳川二代将軍秀忠夫人(崇源院)の御霊屋が移築されたもの。 1628年(寛永5年)の建築物で重要文化財に指定されています。 地蔵菩薩坐像 建長寺 が建てられた場所は、処刑場で地獄谷と呼ばれていました。 そこには、地蔵菩薩を本尊とする 心平寺 があったのだといいます。 そのため、建長寺の本尊は地蔵菩薩なのだそうです。 現在の地蔵菩薩坐像は室町期のものと考えられています。 像高は371.5㎝。 ※「丈六」とは、1丈6尺を略したもの。 心平寺地蔵堂 横浜の 三溪園 には、 建長寺 にあったという 心平寺地蔵堂 が移築されています。 心平寺の本尊だった地蔵菩薩坐像(心平寺地蔵)は、千躰地蔵とともに仏殿の脇段に安置されています。 伽藍神像 創建当初の建長寺の仏殿は、左右に土地堂(つちどう)と祖師堂を従えたものでした。 伽藍神像 は土地堂に祀られていたものだといいます。 建長寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138kentyoji.htm

鎌倉の歴史と静御前の悲しずぎる運命~鎌倉まつり:静の舞~

イメージ
京の白拍子だった 静御前 。 伝説によると・・・ 1182年(寿永元年)、後白河法皇は、 神泉苑 に白拍子100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わせます。 99人までが舞っても雨は降りませんでしたが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたのだとか。 その後、「住吉での雨乞い」の際に 源義経 に気に入られ妾となったのだと伝えられています。 神泉苑 (京都) 源頼朝 と不仲となった義経が都を落ちるときも行動を共にしていました。 義経一行は九州へ渡るため摂津国の 大物浦 から船出しますが難破。 わずかな郎党と静を連れて 吉野山 に身を隠しますが・・・ 義経と静は 吉野山 で別れます。 その後、 蔵王堂 に辿り着いたところを捕らえられ、1186年(文治2年)3月1日、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られてきました。 安達新三郎清経邸が宿舎とされたといいます。 そして、 頼朝 から 鶴岡八幡宮 で舞うように命じられたのは4月8日の 灌仏会 のときでした。 一説によると、頼朝の誕生日も4月8日なのだとか・・・ 静の舞 吉野山 峰の白雪 ふみわけて入りにし人の 跡ぞ恋しき ( 吉野山の白雪を踏み分けて消えていったあの人が恋しい。 ) しづやしづ しづのをだまき くり返し昔を今に なすよしもがな ( 静、静と繰り返し私の名を呼んだあの人の輝かしかった頃にもう一度戻りたい。 ) その後も静は鎌倉に留め置かれました。 義経 の子を身籠もっていたからです。 『吾妻鏡』によれば・・・ 頼朝の娘 大姫 の求めによって 勝長寿院 でも舞っています。 大姫 は、婿の木曽義高が殺されて以来、体調が優れず、 勝長寿院 に参籠して病気回復祈願をしていました。 由比ヶ浜 7月29日、静は安達新三郎の家で男子を出産します。 生まれてくるのが女子であれば命は助けられたのでしょうが、男子の場合は将来に憂いを残すので殺される運命にありました。 頼朝 は、新三郎に生まれた赤子を 由比ヶ浜 に捨てるように命じます。 新三郎は静から赤子を受け取ろうとしますが・・・ 静は赤子を衣に包んで抱き伏せながら泣き続けたといいます。 しかし、助命の願いは叶わず、

春の鎌倉:光明寺の寺宝特別展示と山門特別拝観

イメージ
光明寺で国宝の 『当麻曼荼羅縁起絵巻』 をはじめとする寺宝が特別展示されます。 3月27日(月)から5月7日(日)。 寺宝特別展示の期間中は、 山門楼上 の特別拝観も行われます。 山門 光明寺の 三解脱門 は、鎌倉最大の山門 山門楼上 山門からの景色 観桜会 恒例の 観桜会 は3月27日(月)・26日(日)。 観桜会開催時にも 山門楼上 の特別拝観ができます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 光明寺HP http://komyoji-kamakura.or.jp/ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 光明寺 https://www.yoritomo-japan.com/page135komyoji.htm

彼岸桜が咲き始めました~北鎌倉:東慶寺~2017/03/10

イメージ
彼岸桜 が咲き始めました。 今年も彼岸の頃には 彼岸桜 が楽しめそうです。 遅咲きの梅も見頃です。 東慶寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138tokeiji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆