別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2024年3月11日月曜日

北條五代祭り~2024年は60周年記念~




「北條五代祭り」は、戦国大名・後北条氏五代を称え偲ぶ祭り。

北条氏五代とは、初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直


武者行列のパレードが市内を勇壮に練り歩きます。

2024年は60周年記念。


鉄砲衆

小田原城天守閣本丸広場では鉄砲演技も。



北條五代祭り



北条早雲









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小田原城あじさい花菖蒲まつり

開成町あじさいまつり


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2023年7月19日水曜日

織田信長の摠見寺~重要文化財に二王門と三重塔~


摠見寺は、織田信長が安土城の郭内に創建した臨済宗妙心寺派の寺院。

二王門と三重塔以外は焼失してしまっている。



二王門は近江国甲賀郡柏木神社から移築されたもの。

1571年(元亀2年)建立で重要文化財。



金剛力士像は室町時代の作で重要文化財。



三重塔は近江国甲賀郡長寿寺から移築されたもの。

1454年(享徳3年)建立で重要文化財。






本能寺の変







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伊賀越え

天正壬午の乱


徳川家康


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2023年7月8日土曜日

是非に及ばず~織田信長の言葉:本能寺の変~




「是非に及ばず」は、本能寺の変で自刃した織田信長の最後の言葉として知られています。

一般的に、本能寺を包囲された信長が脱出不能と判断し、「仕方がない」という諦めの意味で発した言葉だとされていますが・・・

実は、「是か非かはどうでもよい。戦え!」という命令だったという説も。




当時の本能寺は寺町御池ではなく、堀川四条付近にありました。




信長から家督を譲られていた長男の信忠は二条殿(二条御所)で自刃。



本能寺は、1592年(天正20年)、豊臣秀吉の命により現在地に移転。










本能寺の変

伊賀越え


徳川家康


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2023年7月5日水曜日

小田原開城~豊臣秀吉の小田原征伐~


1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われ、7月5日、北条氏直は降伏。

小田原城は開城して戦国大名の北条氏は滅亡。

五代当主だった北条氏直は助命されますが、四代当主・北条氏政と弟氏照は切腹を命じられています。






小田原北条氏(後北条氏)の初代は北条早雲

早雲が初めて持った城は駿河国の興国寺城(1487年(長享元年))。

1491年(延徳3年)には、伊豆国に進出して韮山城を居城とします。

韮山城を拠点に相模国へ進出した早雲は、1495年(明応4)、小田原城を奪取し、相模国を平定。

その後、北条氏は武蔵、下総、駿河にまで領土を拡げ、三代氏康の時代になると、小田原城は難攻不落の城と呼ばれるほどの城となります。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐時には、城下町を囲む長さ9㎞の総構となっていました。




小田原城


小田原征伐


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2023年6月27日火曜日

清瀧寺の松平信康廟~浜松市~




1579年(天正7年)9月15日、徳川家康の嫡男・松平信康は、武田に内通していたとして、遠江国の二俣城で切腹させられました。

廟所には、信康自刃の際に殉死した吉良初之丞、二俣城主だった大久保忠世、三方ヶ原の戦いで討死した中野正照・青木吉継の墓もあります。




当時の二俣城の城主は大久保忠世

信康を自害させたことを悔やんでいたという忠世は、のちに小田原城に入ると、城下に信康を供養するための萬松院を創建しています。

介錯を命じられたという服部半蔵は、江戸麹町に信康の慰霊のために安養院を創建しました(現在の西念寺)。


信康の切腹は、正室・徳姫が織田信長に送った十二ヶ条の訴状が原因ともいわれますが、近年では、家康と信康の対立が原因という説があります。






徳川家康







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甲州征伐・天目山の戦い

本能寺の変

伊賀越え

天正壬午の乱


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築山殿の廟堂・月窟廟~浜松市:西来院~




1579年(天正7年)8月29日、徳川家康の正妻・築山殿は、武田に内通していたとして、遠江国小藪村で殺害されました。

遺体は西来院に葬られました。

築山殿の殺害は、嫡男・松平信康の正室・徳姫が織田信長に送った十二ヶ条の訴状が原因ともいわれますが、近年では、家康と信康の対立が原因という説があります。

信康は9月15日、二俣城で切腹させられています。





徳川家康







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甲州征伐・天目山の戦い

本能寺の変

伊賀越え

天正壬午の乱


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2023年6月19日月曜日

高月院~戦国大名松平氏の菩提寺:松平郷~



高月院は、戦国大名松平氏の始祖・松平親氏の菩提寺。

親氏の岳父・在原信重(松平信重)が創建しました。



開山は足助氏の一族・見誉寛立。

参考までに、足助氏の祖重長(加茂重長)の娘は、鎌倉幕府二代将軍源頼家の正室となっています。



中央が松平氏の始祖である親氏、右が二代泰親・左が四代親忠夫人の墓塔。

親忠夫人(閑照院)は、七代住持の存牛(そんぎゅう)の実母。






徳川家康







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徳川氏発祥の地

松平氏発祥の地

家康生誕地

徳川家康出生伝説


東照宮



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