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まんだら堂やぐら群の臨時公開日程2012・・・名越切通

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名越切通 の 「まんだら堂やぐら群」 が臨時公開されます。 名越切通 ~公開日~ 平成24年3月10日(土)、11日(日)、17日(土)、18日(日)、20日(祝)の5日間。 (公開時間は10:00~16:00 入場は無料 荒天のときは中止) 「まんだら堂やぐら群」 は、約150穴の中世の「やぐら群」と「五輪塔群」が残された葬送の地です。 名越切通 とともに国の史跡に指定され、世界文化遺産の候補地にもなっている歴史遺産です。 (参考: まんだら堂やぐら群・・・名越切通 ) 世界文化遺産候補21の史跡 JR鎌倉駅3番バス乗り場 「緑ヶ丘入口行き」 「緑ヶ岡入口」下車徒歩8分 JR逗子駅6番バス乗り場 「亀ヶ岡循環」 「緑ヶ岡入口」下車徒歩8分 「亀ヶ岡循環」 「亀ヶ岡団地北」下車徒歩5分 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉七口:名越切通の機能

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鎌倉と三浦を結ぶ 鎌倉七口 の一つ 名越切通 は、「難越」といわれるほど険しい路でした。 古くは、日本武尊が東夷征伐の際に使った古東海道筋であったともいわれています。 (参考: 伝説の古道:名越切通 ) 『新編鎌倉志』には、 「名越切通は三浦へ行道也、此峠、鎌倉と三浦との境也、 甚険峻にして道狭、左右より覆たる岸二所あり、里俗大空洞・小空洞と云ふ、 峠より東を久野谷村と云、三浦の内也、西は名越、鎌倉の内也」 と紹介されています。 切通 名越切通 がいつ切り開かれ整備されたのかは不明ですが、 鎌倉七口 の中でも最も早くから整備されていたのではないかと考えられています。 『吾妻鏡』によれば・・・ 1233年(天福元年)8月18日早朝、 北条泰時 は江島明神参詣のために出掛けます。 しかし、前浜( 由比ヶ浜 )に殺人死体があったため、御所に引き返し、直ちに犯人を捕まえるよう指示します。 御家人らが、武蔵大路・西浜・名越坂・大倉・横大路などの要路を固め捜索した結果、名越辺で、血のついた直垂を洗っている男が発見されます。 岩手左衛門尉が生虜りにして御所で尋問すると、罪を認めたということです。 男は博奕人だったそうです。 ※これが「名越坂」が初めて登場する場面ですが、こ時既に切通は開通していたと考えられています。 その他・・・ 1204年(建永元年)2月4日、 源実朝 が名越山辺で雪見を行ったこと。 1219年(承久元年)9月22日の鎌倉の大火では、名越山の麓まで類焼したこと。 1235年(嘉禎元年)6月28日、 明王院 の洪鐘供養(南方高山祭)が名越山上で行われたこと。 が記されているようですが、「名越坂」についての記述はないようです。 大切岸(おおきりぎし) 源頼朝 の亡き後、実権を握った北条氏にとっての脅威は、三浦半島の 三浦氏 でした。 頼朝 以来の重臣 「三浦氏」 の軍勢を鎌倉へ入れないことが重要なことであり、そのためには鎌倉・三浦を結ぶ峠を防禦施設とする必要がありました。 延々と築かれた「大切岸」もそのための施設だと考えられていました。 しかし、近年の発掘調査では、「大切岸」は、「石切場の跡」だということが判明したそうです。

忍性塔(墓)~鎌倉:極楽寺~

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忍性塔(墓)は、高さ357センチの安山岩製の巨大五輪塔で、1303年(嘉元元年)7月12日、 極楽寺 で示寂した開山忍性の遺骨が納められています(国重文)。 鎌倉時代後期の特徴を伝えたもので、当時の典型的な様式だといわれています。 均斉のとれた美しい五輪塔です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 忍性は、1217年(建保5年)7月16日、大和国(奈良県)に生まれます。 1232年(貞永元年)、信心ぶかかった母の臨終を機に、16歳で大和国額安寺に入って出家し、翌年、 東大寺 の 戒壇院 で受戒します。 1240年(仁治元年)、奈良西大寺の叡尊を師と仰いで「律」を学び、社会事業に力をそそぐ叡尊の影響を強く受けるようになりました。 1252年(建長4年)、西大寺流の「律」を広めるために坂東に向けて旅立ち、常陸国で活動していましたが、1262年(弘長2年)、北条業時の招きによって鎌倉に入り、 多宝寺 に住持します。 そして、1267年(文永4年)、 極楽寺 の開山に迎えられました。51歳のときでした。 本尊には、西大寺と同じ清涼寺式釈迦如来が安置されます。 (参考: 新清涼寺釈迦堂~鎌倉の廃寺~ ) 以後、37年間にわたって 極楽寺 に住持し、律の布教と慈善救済事業に力をそそぎます。 飢饉のときには粥を施し、さまざまな救済施設を建てました。 桑ヶ谷には、 北条時宗 の命により 桑ヶ谷療養所 が建てられ、多くの人々がを救われました。 忍性の救済事業は、人間に限られたものではありませんでした。牛馬のための馬病舎も建てています。  また、土木事業にも力をそそぎ、 極楽寺 門前から坂ノ下に通ずる 極楽寺切通 は忍性によって切り開かれたといわれています。 1303年(嘉元元年)7月12日、87歳で示寂。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 極楽寺参道の桜 忍性塔(墓)は、毎年4月8日の 「花祭り」 の日に 特別公開 されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 昭和51年の忍性塔の修理の際、忍性と慈済の2つの骨蔵器(舎利器)が発見されています。 いずれも「嘉元元年」(1303年)の銘が刻まれたもので国の重要文化財に指定されています。 また、忍性塔の傍らには、「延慶三年」(1310年)の銘がある五輪塔(国

梶原景時・鎌倉中の道路造りを命ぜられる。

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土佐国夜須荘に夜須七郎行宗という武将がいました。 土佐国というと 平治の乱 後、 源頼朝 の同母弟 希義 が流された所です。 行宗は、 希義 を助け源氏再興と計っていたといいます。 しかし、1182年(寿永元年)、 希義 が挙兵することを恐れた平氏は、討手を差し向けます。 希義 は、行宗を頼ろうとしますが、夜須荘に辿り着く前に土佐国の豪族、蓮池権守家綱と平田太郎俊遠に討たれてしまいました。 行宗は、海上に逃れ、そのまま鎌倉の 頼朝 のもとに馳せ参じたといいます。 (参考: 源頼朝の弟希義 ) 源頼朝墓 源頼朝墓 の傍らには、高知市にある源希義墓の土と石が置かれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ その後、夜須行宗は、 頼朝 の命を受けて、 希義 を討った蓮池権守家綱と平田太郎俊遠を討ち取り、1185年(元暦2年)の 壇ノ浦の戦い では、岩国兼秀・兼季兄弟を生け捕りにしました。 さて・・・『吾妻鏡』1187年(文治3年)3月10日条によると・・・ 夜須行宗は、 壇ノ浦の戦い での功を 頼朝 に申し上げていましたが、その行宗を讒訴した者がいます。 讒言の名手 梶原景時 です。 景時 の申すには・・・ 「壇ノ浦の戦いの折に、夜須と称する者はいなかった。 岩国兼秀・兼季兄弟は、自ら降伏してきた輩である。 行宗は、 壇ノ浦の戦い から年数が経過したのをいいことに、 悪だくみをして恩賞を得ようとしている」 というものでした。 一方、行宗は・・・ 「壇ノ浦の戦いのときは、春日部兵衛尉と一緒に同じ船に乗っていた」 と主張します。 そこで、春日部兵衛尉を呼び出し尋問すると、 「一緒でした」 と答えました。 この押し問答を聞いていた 頼朝 は、行宗に恩賞を与えることとし、一方の 景時 には讒訴の科(とが)によって鎌倉中の道路造りを命じています。 その後、行宗は、本領安堵の下文を賜っています(1190年(建久元年)7月11日)。 希義 が討たれたとき、身命を惜しまず、蓮池権守を討ち、以後も度重なる勲功があったからだと『吾妻鏡』は伝えています。 相模国一宮:梶原景時館址 梶原景時 は、 源頼朝 の信頼を得る一方で、多くの同僚たちを讒言によ

北条貞時の発した永仁の徳政令

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北条貞時 は、1271年(文永8年)12月12日、八代執権 北条時宗 の子として誕生します。 母は堀内殿(覚山尼)。 1284年(弘安7年)4月4日、父 時宗 が亡くなると、13歳で九代執権に就任します。 しかし、初期の 貞時 の治世は安定しませんでした。 まだ若い 貞時 に代わって幕府の実権を握ったのは、伯父の 安達泰盛 (母覚山尼の兄)でした。 ただ、 泰盛 の政治は、 得宗家 の御内人(みうちびと)の実権を奪うものだったため、 内管領 の平頼綱の反感を買い、1285年(弘安8年)11月17日、 泰盛 は頼綱に滅ぼされます( 霜月騒動 )。 その後、頼綱が実権を握りますが、 貞時 は、次第にその政治手法に不安を抱くようになり、1293年(永仁元年)4月22日、頼綱邸を襲撃して、頼綱らを滅ぼしました( 平禅門の乱 )。 東慶寺 1285年(弘安8年)、 貞時 が創建しました。 開山は 貞時 の母覚山尼。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~「永仁の徳政令」の発布~ 平頼綱を滅ぼし、ようやく実権を握った 貞時 は、新たな政治方針を明らかにし、訴訟制度の改革に着手します。 当時、 蒙古襲来(元寇) の影響や、時代の進展に伴う経済事情の変化もあって、未処理のままの訴訟が山積みとなっており、御家人の所領に関する紛争が増大していました。 そうした情勢の中の1297年(永仁5年)3月6日、 貞時 は、御家人救済のための「関東御徳政」を発布します。 一般には 「永仁の徳政令」 と呼ばれています。 ※現在では、「御家人の救済のため」というより「幕府草創以来の御家人体制の維持のため」という考え方が有力となっているようです。 主な内容は・・・ ○ 御家人間の所領の売買質入を禁止。 ○ それ以前に売却した所領は、売主の御家人が無償で取り戻すことができる。 ただし、「幕府の下文・下知状のあるもの」及び「買主が20年以上知行しているもの」を除く。 ○ 非御家人や一般庶民に売買質入した所領は無

第54回鎌倉まつり(2012予定)

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昨年は、諸般の事情で中止となった 「鎌倉まつり」 ですが、今年は4月8日(日)~15日(日)の間に行われます。 ~主なイベント~ 8日 (日) 11:00~ パレード ・・・ 若宮大路 8日 (日) 13:00~ ミス鎌倉お披露目 ・・・ 鶴岡八幡宮 : 舞殿 8日 (日) 15:00~ 静の舞 ・・・ 鶴岡八幡宮 : 舞殿 静の舞 静御前が 若宮 の回廊で舞ったのは、1186年(文治2年)4月8日。 今年は、同じ日に 「静の舞」 が舞われます。 (参考: 静の舞~鶴岡八幡宮~ ) 花祭り 「鎌倉まつり」 が始まる4月8日は、 釈迦が誕生した日です。 各寺で 「花祭り」 が行われます。 極楽寺 では、 秘仏本尊の開扉と忍性墓の特別公開 があります。 13日 (金)  頼朝公墓前祭 ・・・ 源頼朝墓 頼朝公墓前祭 源頼朝 は、1199年(建久10年)1月13日に亡くなりました。 源頼朝 の命日にあたる4月13日には、 「頼朝公墓前祭」 が行われます。 13日 (金)・ 14日 (土)  野点席 ・・・ 鶴岡八幡宮 境内 14日 (土)・ 15日 (日)  野点席 ・・・ 高徳院 (鎌倉大仏)境内 鶴岡八幡宮の野点席 15日 (土) 13:00~ 流鏑馬 ・・・ 鶴岡八幡宮 : 流鏑馬馬場 流鏑馬神事 「鎌倉まつり」 の最終日には、武田流の 「流鏑馬」 が

建久2年の鎌倉大火~鶴岡八幡宮が灰燼と化す~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1191年(建久2年)3月3日、 鶴岡八幡宮 では法会があり、箱根の稚児10人が舞いました。 又、臨時祭では、馬長十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番が奉納され、 源頼朝 も参詣し、夕方には無事終了しました。 頼朝 が 御所 に戻った後も、供奉した御家人たちは侍所に残っていましたが、その中に広田次郎邦房という御家人がいました。 邦房は御家人たちの前でこう予言します。 「明日、鎌倉に大火災が起こり、若宮(鶴岡八幡宮)も 御所 もその難を逃れることはできないだろう」と。 しかし、誰も本気にはしませんでした。 ところが・・・ 翌3月4日は、南風が強く吹き荒れ、午前2時頃、 小町大路 の辺りで失火がありました。 強風にあおられた火は、 北条義時 、大内惟義、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛、新田忠常、工藤行光、佐貫広綱など御家人10人の屋敷を焼きます。 さらに、火は 鶴岡八幡宮 の 流鏑馬馬場 に建てられたばかりの 五重塔 に移り、 御所 、神殿、回廊、経所が悉く灰燼と化してしまいました。 供僧坊 のいくつかも延焼を免れることはできなかったそうです。 前日の晩、広田次郎邦房が予言したとおりの大火となってしまいました。 頼朝 は、午前4時頃、甘縄の 安達邸 に避難しています。 鶴岡八幡宮 3月6日、焼失した 鶴岡八幡宮 を参拝して、 頼朝 は涙を流したといいますが、立ち直りは早く、8日には再建の工事にとりかかります。 7月28日、完成した新造の御所では「御移徒の儀」が行われ、 頼朝 は、 安達邸 から新亭に移っています。 そして、11月21日には、 本宮(上宮) と 若宮 の遷宮が行われました。 頼朝 は 若宮 再建とともに 本宮 を創建し、改めて 石清水八幡宮 の祭神を勧請しています。 石清水八幡宮 遷宮の際に行われた儀式を再現したのが、毎年12月16日に行われる 「御鎮座記念祭」(御神楽) です。 御鎮座記念祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/gotinza-kinensai.htm

2012鶴岡八幡宮の河津桜は・・・

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鶴岡八幡宮 の大石段の 河津桜 は、枝が下ろされていて、今年はきれいな花を見ることができないようです。 昨年(平成23年)秋の台風の後、葉が枯れていたので気になっていましたが・・・ (※葉がついて伸びている枝は、 河津桜 の背後にある木のものです。) 昨年の様子 段葛 では、 玉縄桜 も間もなく咲き始めるでしょう。 流鏑馬馬場 では 「大寒桜」 が咲き始めています。 鶴岡八幡宮の春と桜 https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/sakura/hatiman-sakura.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html