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7月 3, 2022の投稿を表示しています

三千年に一度咲く優曇華の花~鎌倉に咲いたという伝説~

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『吾妻鏡』によると、1223年(貞応2年)7月9日、鎌倉では、薬師堂(現在の 覚園寺 )の谷に住んでいた浄密という僧の住まいの前庭で、優曇華(うどんげ)の花が咲いてると噂が流れました。 鎌倉中の男女が見物したくて群れ集まってきたそうです。 北条政子 は、遠藤左近将監為俊を遣わしますが、その報告は芭蕉の花ではないかというものだったそうです。 ※優曇華は三千年に一度花が咲くという伝説の植物。 覚園寺 このときの様子は『北条九代記』にも書かれています。 優曇華の花が咲いたという薬師堂の谷には、おびただしい数の見物人が集まったようです。 政子は「珍しい花がそう簡単に咲くものか?」と疑問に思い、近弘上人を呼んで優曇華について尋ねます。 近弘上人の説明によると・・・ 人間がこの世に生まれて八万年経つと須弥の四大洲を領有する「転輪聖王」が出現して、国は豊かになり、人々は繁栄し、五穀は耕さなくても育ち、衣類も樹木の枝から現われるのだとか。 ※須弥は仏教の世界観で中央に聳える山 ※四大洲は須弥山の四方にある四つの島 そして、優曇華の花は、開花期は短く、引潮のときに咲いて満潮になると散ってしまう花で、転輪聖王が須弥の四大洲を巡ると、須弥山のある大海の浜辺の黄金の砂の上に三千年を待って咲き出すのだとか。 この話を聞いた政子は「その優曇華の花とはどんな形ですか?木ですか?草ですか?」と尋ねます。 言葉につまった近弘上人は「そこまでは覚えていません」と言って帰ってしまったそうです。 居合せた者たちは「お粗末な学者ですなぁ」と笑い合ったのだとか。 浄智寺仏殿 北鎌倉の 浄智寺の仏殿 は「曇華殿」と呼ばれます。 この曇華は優曇華のことなのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

白旗大明神~鶴岡八幡宮の白旗神社~

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白旗神社 死後、朝廷より「白旗大明神」の神号を賜ったという 源頼朝 。 鶴岡八幡宮 の末社 白旗神社 は、1200年(正治2年)に 北条政子 が頼朝を祀るために創建したのだと伝えられています( 源頼家 創建とも。)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

2022光明寺の観蓮会

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日時:7月30日(土曜日)・31日(日曜日) ◎大聖閣抹茶席 1,000円 予約制(9時・10時・11時・12時・13時・14時・15時)各回40分 ◎香木とお香の香りを楽しむひと時 (聞香体験) 1,000円 予約制(10時・11時・13時・14時)各回40分 ◎観蓮会特別講演 【浄土蓮想】 入場料 2,000円 7月30日(土) 午後4時開場/午後4時30分開演 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

七夕に素麺(そうめん)を食べて・・・恋愛成就・無病息災

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平安時代に編纂された『延喜式』には、七夕に「索餅」(さくべい)が供えられたという記述があるそうです。 索餅は中国の食べ物で、奈良時代に日本に伝えられたのだといいます。 のちに、この索餅が変化を遂げ、「素麺」(そうめん)になったのだとか・・・ 文献で「素麺」が初めて確認されるのは、 祗園社 (八坂神社)の『祇園執行日記』(1343年(康永2年)7月7日条)のようです(いろんな説があるようです。)。 中国の伝説によると・・・ 昔昔の7月7日、 ある子どもが亡くなります。 そして、その子が霊鬼となって熱病を流行らせます。 困った村人たちは、その子の好物だった索餅(さくべい)を供えることにしたそうです。 すると熱病が収まったのだといいます。 ということで・・・ 7月7日に索餅を食べると無病息災で暮らせるのだと伝えられてきたようです。 素麺の原料は小麦。 七夕に素麺を食べる理由の一つには、小麦が収穫できたことへの感謝の意味もあるのだといいます。 他には、 ○素麺の流れが天の川を連想させるから。 ○麺が織姫のつむぐ糸を連想させるから。 などというものもあるようで・・・ 参考までに、索餅は『吾妻鏡』にも登場します。 1189年(文治5年)6月3日、天台座主全玄僧正( 延暦寺 の貫主)の代理として法橋観性が鎌倉に下ってきました。 鶴岡八幡宮 の 五重塔 の供養の導師を勤めるためです。 源頼朝 は、 佐々木高綱 に命じて、前もって旅館と定めていた 八田知家 の屋敷に案内させます。 そして、 三浦義村 を遣わして菓子と索餅を贈っています。 全国乾麺協同組合連合会では、7月7日を「そうめんの日」としているそうです。

石山寺と中原親能・亀谷禅尼

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石山寺の毘沙門堂 『石山寺縁起』によると・・・ 建久の頃、 源頼朝 に山城国和束の反乱を鎮めるよう命じられた 中原親能 は、 石山寺 で祈願。 すると毘沙門天が現れ、その加護によって反乱を鎮圧できたのだといいます。 親能 は、その恩に報いるため、 石山寺 に勝南院を建立したのだそうです。 頼朝と亀谷禅尼の宝篋印塔 亀谷禅尼は 中原親能 の妻。 源頼朝 の次女 三幡 の乳母を務めました。 剃髪後に 石山寺 に住して宝塔院を建立し、本尊の大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

平家の直系六代御前と文覚の伝説

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六代御前とは、 壇ノ浦 に沈んだ平維盛の子高清のこと。 「六代」という呼び名には、平正盛から数えて六代目の直系という意味があるといいます。 1183年(寿永2年)、 木曽義仲 に攻められた平家一門は「都落ち」しますが、維盛は妻子を都に残していったそうです。 この時点で維盛は「平家の時代は終わった」と思っていたのかもしれません。 あの平重盛の子ですから、先々まで読んで行動していたでしょう。 そして、1185年(文治元年)3月、平家は 壇ノ浦 で滅亡。 六代御前は、 源頼朝 の命によって平家の残党を探索していた 北条時政 によって捕らえられてしまいました。 しかし、本来であれば、鎌倉に送られて斬首されるはずの六代御前は、 文覚 によってその命を救われます。 『平家物語』の伝えるところによれば、 文覚 が 頼朝 に助命嘆願し、「赦し文」を手に入れたとなっておりますが、 『吾妻鏡』によると、 文覚 の弟子によって、 「六代御前は文覚の弟子であるのに斬首しようとしている。 祖父の重盛はあなたの命を助けてくれた方でしょう。 重盛への恩と文覚との縁をもって、文覚に預けてもらいたい。」 という内容の事が伝えられたようです。 そして、 文覚 の申し分を無視するわけにもいかないので、「当分の間、文覚に預ける」とした旨の手紙が 北条時政 の所へ送られたようです。 いずれにしても、命を助けられた六条御前は、出家して「妙覚」となり、「三位禅師」と呼ばれるようになります(父維盛は「三位右近衛権中将」だった。)。 1194年(建久5年)、鎌倉を訪れた妙覚が 頼朝 に謁見したとも伝えられています。 しかし、1199年(建久10年)1月13日、妙覚を助けた 頼朝 がこの世を去ります。 それから、わずか1ヶ月後、最大の庇護者である 文覚 も 「三左衛門事件」 の際に捕らえられ佐渡国流罪となりました。 そして、妙覚も捕らえられ、田越川で処刑されたと伝えられています。 いつ捕らえられ、いつ処刑されたのかは不明です。 文覚 は、佐渡国流罪後に許されますが、再び捕らえられ対馬国に流される途中に死んだというのが通説となっています(1205年(元久2年))。 六代御前の墓 ☆