別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年6月14日金曜日

祇園祭が始まった日


八坂神社

祇園祭八坂神社の祭礼。

かつての八坂神社は、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


863年(貞観5年)、京都では疫病が流行。

神泉苑では「御霊会」が行われます。

しかし、疫病の流行は収まりません。



869年(貞観11年)6月14日、人々は神泉苑に当時の国の数である「66」の矛を立て、神輿3基を送って、牛頭天王(祇園神)を祀る御霊会を執り行いました。



それが祇園祭の始まりと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


八坂神社の神輿

中央の神輿は胴の部分が六角、右が四角、左が八角。

六角は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)

四角は櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)

八角は八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)





祇園祭

京都祇園:八坂神社の神輿


八坂神社








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2024年5月27日月曜日

清水寺に参籠した清少納言と歌を贈った藤原定子




『枕草子』によると・・・

清少納言清水寺に参籠したとき、藤原定子


山近き
入相の鐘の
声ごとに
恋ふる心の
数は知るらむ



(山に近い寺の夕暮れ鐘の一声ごとに、そなたを恋しく思う私の思いの数を知っているだろうに。それなのに長い参籠だこと。)

と文に書いてきたようです。

紙を持ち合わせていなかった清少納言は、紫の蓮の花びら(散華用の紙)に返歌を書いたのだとか。



清水寺は、清少納言紫式部赤染衛門などの女流文学者が信仰した観音霊場。





一条天皇


藤原定子


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☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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2024年5月20日月曜日

藤原定子と清少納言の枕草子~春はあけぼの~


清少納言



993年(正暦4年)頃から一条天皇の中宮・藤原定子に仕えた清少納言でしたが・・・

996年(長徳2年)の長徳の変では、定子は里第の二条宮に下り、清少納言は「道長のスパイ」と噂されて引き篭もってしまったのだといわれています。


翌年、左遷された藤原伊周の罪を許されると・・・

一条天皇は、再び定子を宮中に迎え入れます。

そして、定子清少納言に戻ってきて欲しいという願いを込めて上質な紙を贈ります。

これをきっかけに書き始められたのが『枕草子』なのだとか・・・


1000年(長保2年)、定子は一条天皇の第二皇女・媄子内親王を出産後に崩御。

清少納言も宮中を去りますが、翌年には定子の才色兼備ぶりを書いた『枕草子』を完成させたのだといわれています。





一条天皇


藤原定子


藤原道長


藤原彰子


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左遷された伊周と貴子・定子


長徳の変後、藤原伊周は大宰府に、弟の隆家は出雲国に左遷という勅が発せられました。

『栄花物語』によると・・・

母の高階貴子が面会に訪れ、中宮・藤原定子とともに一つに手を取り合って悲しみの一晩を過ごします。

夜が明けて・・・

なかなか配所へ出発しない伊周らに検非違使らが「出発の時になりました」と声をかけても、貴子定子も伊周の袖をつかんで放さなかったのだといいます。

ようやく出発しますが、貴子は伊周の車から離れず、山崎まで乗っていったのだとか。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


大宰府と出雲国に左遷された伊周隆家ですが・・・

伊周は播磨国に、隆家は但馬国に留める勅が発せられています。

伊周が播磨国の明石にいることを知った母貴子は、息子を思う歌を詠んでいます。

播磨国に留まっていた伊周は、その後、病に倒れた母貴子を案じて秘かに入京しますが、捕らえられ、改めて大宰府に護送されたのだと伝えられています。


📎高階貴子の歌~明石の藤原伊周を思って詠んだ歌~


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


伊周が流された播磨国の明石は、紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏が流れ着いた地。

『栄花物語』 には

「かたがたに別るる身にも似たるかな明石の須磨も己が浦浦」

という伊周の歌がありますが・・・

『栄花物語』は、光源氏の須磨・明石への蟄居を参考に書かれたようです。


📎藤原伊周の歌~播磨国配流と栄花物語「浦々の別」~




長徳の変



一条天皇


藤原定子

藤原彰子


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2024年5月16日木曜日

伊周の左遷と栄花物語~長徳の変~


『栄花物語』によると・・・

父の藤原道隆の死後、内大臣として権勢を奮っていた藤原伊周は、弟の隆家とともに花山法皇に矢を向けたことなどの理由から配流の宣旨を下されます。

自邸から密かに脱出した伊周は、宇治陵の道隆の墓に参り、北野天満宮を参拝。

その翌日、伊周は筑紫の太宰府に、隆家は出雲に流され、妹で一条天皇の中宮・定子は落飾。

配流途中の山崎で伊周が病気になったため、伊周は播磨、隆家は但馬に留まることが許されました。

播磨に流された伊周は、母高階貴子の病気を聞いて密かに入京しますが、捕らえれて大宰府に護送されました。

翌年、妹の定子敦康親王を出産したことの恩赦によって都へ帰り、亡き母の墓前に参っています。


ただ、『栄花物語』『源氏物語』を意識して書かれたといわれています。

伊周が帰京したときに敦康親王はまだ生まれていません。

藤原実資の『小右記』によると、伊周の召還は東三条院(藤原詮子)の病気による大赦だったようです。


『栄花物語』の作者は、紫式部と同じく藤原彰子に仕えた赤染衛門といわれています。

『源氏物語』では、須磨・明石に蟄居していた光源氏は、兄の朱雀帝に皇子が誕生したことで赦され、帰京しました。

『栄花物語』は、この場面を模倣しているようです。

伊周は配流前に宇治陵の道隆の墓を参っていますが、『源氏物語』でも光源氏は父桐壺帝の陵に参っています。




宇治陵は、関白・藤原基経が定めた藤原北家一門の埋骨地。



北野天満宮は、無罪の罪で太宰府に流され、同地で没した菅原道真を祀る社。



春日大社は、藤原氏の氏神。

『栄花物語』では、宇治陵北野天満宮を参ったことになっていますが、藤原実資の『小右記』では愛宕山、『日本紀略』では春日大社に参ったことになっています。




長徳の変



一条天皇


藤原定子

藤原彰子


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