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鎌倉幕府二代執権・北条義時は暗殺されたのか?

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鎌倉幕府二代執権を務めた 北条義時 は、 北条時政 の次男で 源頼朝 の妻 北条政子 の同母弟です。 政子・義時の母は定かではありませんが、伊東祐親の娘という説もあります。 頼朝 の亡き後の 義時 は、 父 時政 とともに二代将軍 源頼家 の独裁を停止させ( 十三人の合議制 )、 梶原景時の変 、 比企の乱 、将軍 頼家 の追放(参考: 修禅寺 )、 畠山重忠の乱 を通じて有力御家人を排斥していきました。 畠山重忠の乱 後は父 時政 を追放し、政所別当となって幕府の実権を握ります。 そして、 和田合戦 で 和田義盛 と一族を滅亡させた後は、侍所別当をも兼ね、北条執権体制の基礎を築きました。 覚園寺 覚園寺 は、 義時 の建てた大倉薬師堂を前身としています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1219年(承久元年)三代将軍 源実朝が暗殺 され、1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇の討幕計画によって朝敵とされますが、 義時 は見事に幕府の危機を脱しています( 承久の乱 )。 後年、室町幕府を開いた 足利尊氏 が制定した 『建武式目』 の冒頭には、 「なかんづく鎌倉郡は、文治に右幕下はじめて武館を構え、承久に義時朝臣天下を併呑す。」 と記されています。 ~義時の死~ 頼朝 の興した武家政権を拡大・発展させた 義時 でしたが、1224年(元仁元年)6月12日突如発病し、翌日亡くなっています。 『吾妻鏡』には、「念仏を唱えつつ順次往生をとげた」と記されていますが、古くから近習の小侍に刺し殺されたという説もあったようです。 北条義時の法華堂跡 平成17年の発掘調査によって、 義時 の 法華堂跡 の可能性が高いと考えられています。 『吾妻鏡』には、「故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記されています。 ~義時は毒殺されたのか・・・~ (伊賀氏の変) 義時 の死後すぐに起こった事件が 「伊賀氏の変」 です。 義時 の後継者は誰もが嫡男の 泰時 であると考えていたところですが、 義時 の後妻伊賀氏が兄伊賀光宗とはかって、実子の政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に据えようとする陰謀が発覚します。 この陰謀には 三浦義村 もかかわっていました。 しかし、

源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~

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源頼朝 の守り本尊は正(聖)観音像でした。 1180年(治承4年)8月17日、 頼朝 は源氏再興の旗挙げをします。 伊豆の目代山木兼隆を討ち、相模へ向けて軍を進めますが、 石橋山の戦い では 大庭景親 に大敗し山中に逃げ込みます。 『吾妻鏡』(治承4年8月24日条)によると・・・ 頼朝 は髷に観音像を入れていました。 しかし、 景親 ら平氏方に捕まったときに、「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考え、観音像を山中の 洞窟 に置いて逃げたそうです。 この観音像は、 頼朝 が三歳のときに京都 清水寺 から下された二寸銀の正(聖)観音像だったといいます。 清水寺 真鶴町岩海岸 石橋山の戦い で敗れた 頼朝 は、この浜から安房に渡ったと伝えられています。 観音さまが船頭となって 頼朝 を助けたという伝承もあります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ その後、洞窟に置いてきた観音像は、 伊豆山 の專光坊良暹の弟子僧が見つけて 頼朝 に届けたといいます(『吾妻鏡』治承4年12月25日条)。 伊豆山神社 (熱海市) 頼朝が観音像を置いたという岩窟 しとどの窟 (湯河原町) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1189年(文治5年)、 頼朝 は 奥州征伐 の折、專光坊良暹を呼び出し、御所の裏山に祈願所を設けて、 頼朝 の守り本尊である「二寸銀の正(聖)観音像」を安置し祈ることを命じています(『吾妻鏡』文治5年7月18日条)。 これが 頼朝 の持仏堂と呼ばれるもので、 頼朝 亡き後には 法華堂 と呼ばれたといいます。 源頼朝墓 法華堂があったとされる場所には供養塔が建てられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~参考~ 『吾妻鏡』によると、 頼朝 は、挙兵前の1180年(治承4年)7月4日、 伊豆山 の僧文陽房覺淵を北条屋敷に呼び出しています。 頼朝 は、挙兵前に法華経を千回読むつもりでいたようです。 しかし、忙しくなり千回を達成することが難しくなりました。 そこで、 「たとえば八百回読んだとしたら功徳をつむことはできるのか?」 と覺淵に訪ねたといいます。 すると覺淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と

和田合戦~北条義時の徴発と三浦義村の裏切り~

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1213年(建暦3年)、鎌倉幕府の侍所別当だった 和田義盛 が起こした反乱を 「和田合戦」 といいます。 和田城址 (和田の里) 三浦市初音町の 「和田の里」 は、 和田義盛 が開拓した土地です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~泉親衡の謀叛計画~ 和田合戦 は、1213年(建保元年)2月16日、信濃国の住人泉親衡の謀叛計画が発覚したことをきっかけとしています。 親衡は、二代将軍 源頼家 の遺児栄実(幼名千寿)を擁して、 北条義時 を討滅を計画していました。 謀叛計画の加担者の中に 義盛 の子義直・義重と甥の胤長がいました。 源頼朝 亡き後、幕府の実権を握るため、 梶原景時 、 比企能員 、 畠山重忠 といった有力御家人を次々に滅ぼしてきた北条氏がこの機を逃すはずがありません。 筋違橋の碑 源実朝 への謀叛を計画した張本人泉親衡は、 筋違橋 に隠れていたところを攻められ逃亡し、その後の行方は不明のままです。 そもそもこの事件、 和田義盛 を滅ぼすための 北条義時 による陰謀なのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~北条義時の徴発~ 謀叛計画に加担したとして捕らえられた3名のうち、義直と義重は許されました。 ただ、胤長だけは許されず、 実朝 に赦免を訴えに来た和田一族98人の前で、両手を後ろ手に縛られたまま引かれていくという屈辱を受けたといいます。 また、 荏柄天神社 の前にあったとされる胤長の屋敷は、いったんは、これまでの慣例によって 義盛 に下げ渡されます。 しかし、 義時 はこの屋敷を取り上げて自分のものとしてしまいます。 義時 から、度重なる屈辱を受けた 義盛 は、戦備をととのえはじめます。 しかし、それは 義時 の思うつぼでした。 荏柄天神社 歌ノ橋 渋川兼守という人物も謀叛計画に加担したとして捕らえられ、処刑が決まっていたといいます。 兼守は、無実を訴えるための和歌を 荏柄天神社 に奉納したところ、その和歌が 源実朝 に認められ罪を許されたといいます。 そのお礼に架けたのがこの 歌ノ橋 ということです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~和田義盛の挙兵~ 義盛 は当初、武蔵横山党の援軍を待って出軍する予定でしたが、

源実朝の暗殺と倒幕を企てた後鳥羽上皇~承久の乱~

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1219年(承久元年)1月27日、三代将軍 源実朝 が暗殺されます(参考: 源実朝の暗殺 )。 実行犯は、二代将軍 源頼家 の子公暁ですが、事件後直ちに誅殺されています。 頼家 の四男禅暁も翌年に殺害され、 源頼朝 の血統は絶たれました。 源実朝 兄 頼家 の失脚後、三代将軍となりますが、その実権は 北条氏 に握られていました。 子がいなかった 実朝 には、自分の後継者に後鳥羽上皇の皇子を迎えるという考えがあったといわれています。 後鳥羽上皇も 実朝 には好意的だったといいますし、「実朝」という名は後鳥羽上皇に与えられたものともいわれています。 (一方で、 実朝 の昇進は「官打」(かんうち)だったという説もありますが・・・) 源実朝の歌碑 (鎌倉国宝館前) 「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」 『金槐和歌集』 にも載せられている 実朝 の代表的な和歌です。 山が裂けても、海が干上がっても、後鳥羽上皇に二心を抱くようなことはないという意味のようです。 実朝 と後鳥羽上皇が良好な関係にあったことがうかがえます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 実朝 と後鳥羽上皇が、それぞれどのような気持でいたのかは今となってはわかりませんが、 実朝 が暗殺されたことで、鎌倉幕府と朝廷との関係が一気に崩壊してしまったことは確かです。 承久の乱 鎌倉時代最大の内戦といわれます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討滅しようとしたのは、1220年(承久2年)の夏頃であったのではないかといわれています。 1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇は倒幕の兵を集め、翌日には、 北条義時 追討の院宣を発しました これに対して 北条政子 は5月19日、御家人を集めて訓示を行ったといいます。 北条政子 実朝 亡き後、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしますが、 後鳥羽上皇に拒否されたため、九条道家の子三寅( 頼経 )が鎌倉に下向し四代将軍となります。 政子 は、三寅の後見役となって「尼将軍」と呼ばれます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~尼将軍北条政子の訓示~ 「皆心を一にして奉る可し、是最期の詞なり、故右大将軍(源頼朝)朝敵を征罰し

小坪路のお地蔵さま~光明寺:石造延命地蔵~

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光明寺 の石造延命地蔵(網引延命地蔵)は、かつては、 小坪路 の鎌倉側の入口にありました。 鎌倉二十四地蔵 の一つに数えられています。 小坪路 は二筋あって、一つは 正覚寺 から 海前寺 へと通じていた切通で、もう一つは 光明寺 裏山から小坪坂を通る道筋です。 石造延命地蔵 (網引延命地蔵) 正中2年(1325年)の銘をもつ地蔵尊です。 かつては、小坪坂の鎌倉側の入口のやぐらに安置されていたといいます。 鎌倉二十四ヶ所の碑 小坪路 は、日本武尊が東夷征伐の折に利用した道ともいわれ、古くより鎌倉と三浦半島とを結ぶ要路でした( 名越切通 も同じように伝えられています。)。 そして、小坪側の入口には、石造子育地蔵が祀られています。 旅の安全を祈願するために両方の入口に地蔵尊が置かれたのでしょう。 小坪路 は多くの旅人に利用されていたのでしょうね。 石造子育地蔵尊 地蔵堂横の須賀社