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源頼家と修禅寺・修善寺

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1203年(建仁3年)9月29日、鎌倉から追放され伊豆の 修禅寺 へ出発した 源頼家 。 『吾妻鏡』によると・・・ 先陣の随兵は百騎。 次に女騎が十五騎。 次に神輿三帳。 次に小舎人童一人 後陣の随兵は二百餘騎 だったのだという。 修禅寺 修禅寺 は弘法大師の創建と伝えられる古寺。 頼家の叔父 源範頼 も修禅寺に幽閉されています。 狩野川 修禅寺 に幽閉された 頼家 は、寂しさを慰めるため狩野川と桂川の合流点にある月見ヶ丘で月を眺めていたのだといいます。 月見ヶ丘と桂川 時には里の子どもたちと遊び、我が子のことを思い出していたのだとか。 愛童将軍地蔵 頼家 は 修禅寺 に幽閉された翌年7月18日に暗殺されてしまいますが、悲しんだ里人は月見ヶ丘に地蔵尊を建てます。 それが修善寺橋の袂にある 愛童将軍地蔵 。 横瀬八幡神社 横瀬八幡神社 は、もとは月見ヶ丘にあったという社。 相殿に頼家が祀られています。 頼家の仮面 修禅寺 には「頼家の仮面」が伝えられています。 舞楽面のようですが、新歌舞伎作家の岡本綺堂は「頼家の仮面」を拝観して 『修禅寺物語』 を描いたのだそうです。 虎渓橋 虎渓橋(こけいばし)は、 修禅寺 の門前を流れる桂川に架けられた橋。 『修禅寺物語』 では、この橋の袂で頼家の側女となった桂が「若狭局」という名を与えられる・・・  筥湯 筥湯 は、頼家が入浴したという外湯。 頼家の墓 1204年(元久元年)7月18日、頼家は刺客に襲われて亡くなります(享年23)。 筥湯 に入浴中に襲われたという説も。 「征夷大将軍左源頼家尊霊」と刻まれた石柱は記念碑。 墓はその裏にある小さな五輪塔。 十三士の墓 頼家の家臣十三士の墓。 指月殿 指月殿 は北条政子が頼家の冥福を祈って建立した経堂。 修禅寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の父重能

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畠山重忠産湯の井戸 (深谷市:畠山重忠公史跡公園) 畠山重忠 の父重能は、武蔵国留守所総検校職を世襲していた秩父氏の出身。 秩父氏の嫡流が武蔵国男衾郡畠山に進出してきたのは重能と時といわれているが、その詳細については不明。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1155年(久寿2年)、 源義朝 の子義平と結んで、武蔵国比企郡にあった源義賢の 大蔵館 を襲撃。 義賢とともに、義賢に娘を嫁がせていた叔父の秩父重隆を討ち取ります。 このとき、義賢の次男・駒王丸(のちの 木曽義仲 )を匿い、密かに 斎藤実盛 に託して信濃国の木曽谷へ逃がしたのだと伝えられています。 源義賢の墓 (埼玉県嵐山町) 源義賢は、兄 義朝 に対抗するため、武蔵国比企郡大蔵に館を構えて勢力を伸ばしつつありました。 義仲産湯の清水 (埼玉県嵐山町) 木曽義仲 は、武蔵国の 大蔵館 で誕生したと考えられ、 鎌形八幡神社 境内に湧き出す清水は、義仲の産湯に使用されたと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1159年(平治元年)の 平治の乱 で 源義朝 が 平清盛 に敗れると平家の家人となった重能。 1180年(治承4年)に 源頼朝 が 挙兵 すると、重忠は頼朝に仕えますが、大番役で京にいた重能は、 平宗盛 に引き止められていたようです。 『吾妻鏡』によると、 清盛 の信頼が厚かった平貞能が 宇都宮朝綱 ・畠山重能・弟の小山田有重らを開放するように進言したことで、 頼朝 に従うことになったのだといいますが・・・ 頼朝挙兵後の重能の詳細は不明です。 畠山重能の墓 (深谷市:畠山重忠公史跡公園) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

三代将軍源実朝の正室・坊門姫(西八条禅尼)

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『吾妻鏡』によると・・・ 1204年(元久元年)8月4日、 源実朝 の正室を京都から公卿の娘を迎えることが決まります。 幕府内では 足利義兼 の娘が候補にあがっていましたが、実朝の強い希望があったのだそうです。 選ばれたのは前大納言坊門信清の息女・坊門姫。 実朝直々の希望で風貌の良い若い勇敢な武士が迎えにいくことになったのだとか。 10月14日、坊門姫を迎えるため北条政範・ 結城朝光 ・千葉常秀・ 畠山重保 ・八田知尚・和田宗実・土肥惟光などが上洛し、12月10日、鎌倉に到着しました。 坊門姫の父坊門信清は 後鳥羽上皇 の母方の叔父。 したがって坊門姫は後鳥羽上皇の従兄妹(いとこ)。 子には恵まれませんでしたが、実朝とは仲が良かったとされ、尼御台の 北条政子 も坊門姫を立てていたのだと伝えられています。 日向薬師 (伊勢原市) 1211年(建暦元年)7月8日、 政子 と参詣した薬師如来の霊場・日向薬師。 三崎の御所 (三浦市) 1212年(建暦2年)3月9日、 実朝 は 政子 と坊門姫を連れて三崎の御所へ出かけ、船中で 鶴岡八幡宮 の稚児たちの舞楽舞を楽しみました。 三崎の御所 とは、 源頼朝 の 椿の御所 ・ 桜の御所 ・ 桃の御所 。 永福寺跡 (鎌倉) 永福寺 は 頼朝 が建立した寺院。 1217年(建保5年)3月10日、 実朝 は坊門姫と同じ牛車に乗って花見に出かけています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1219年(建保7年)1月27日、 実朝 が暗殺されると、翌日、 寿福寺 の 退耕行勇 を戒師として出家。 京に戻って、1222年(貞応元年)、実朝の菩提寺・遍照心院(現在の 大通寺 )を建立しています。 西八条禅尼と呼ばれた坊門姫は、1274年(文永11年9月18日に死去(享年82)。 寺に何か問題が起こったときは 安達泰盛 に訴えるよう遺言していたそうです。 泰盛は、実朝に尽くした 安達景盛 の孫。 京都大通寺 大通寺 (万祥山遍照心院)は、坊門姫が実朝の菩提寺として建立したことに始まる。 金剛三昧院 (高野山) 高野山 の 金剛三昧院 は、 政子 の発願で 頼朝 の供養のために建立された禅定院を始まりとする寺