奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~
1189年(文治5年)9月3日、 源頼朝 の奥州征伐によって、北海道へ逃げようとしていた藤原泰衡は、郎党河田次郎を頼ります。 しかし・・・河田次郎の裏切りに遭い、殺害されました。 これにより、清衡・基衡・秀衡・泰衡と約100年にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡します。 毛越寺 ※「征伐」という言葉について反感を抱く方もいらっしゃると思われますが、「征伐」とは「正当な戦い」という意味ではありません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源義経を自刃に追い込んだ泰衡~ 1185年(文治元年)10月18日、 源義経 は、 頼朝 追討の宣旨を得ますが、 義経 に味方する者は思うように集まりませんでした。 11月3日、 義経 は都落ちし、11月6日、大物浦から西国に逃れようとしますが、暴風により難破してしまいます。 その後行方をくらました 義経 ですが、最後は奥州藤原秀衡を頼りました。 義経 が 平泉 に入ったのは、1187年(文治3年)の春頃ではないかといわれています。 しかし、その年の10月29日、秀衡が亡くなります。 秀衡のあとを継いだのが泰衡でした。 秀衡は、 「 義経 を主君として、 頼朝 の攻撃に供えるように」 と遺言していたといいますが、 泰衡は、 頼朝 の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、 義経 の 衣川館 を攻め、自刃に追い込みます。 泰衡は、 義経 の首を 頼朝 に差し出せば、 頼朝 との「和平が可能」と考えていたのかもしれませんが・・・ 衣川館 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源頼朝・・・奥州征伐へ出陣~ 1189年(文治5年)7月19日、 頼朝 は、泰衡を征伐するため、 畠山重忠 を先陣に鎌倉を出発します。 頼朝 は、 義経 を匿う「泰衡追討の宣旨」を要求していましたが、泰衡が 義経 を討ったことによって、その大義名分が失われてしまいます。 そのため、朝廷は宣旨の発給を渋っていました。 しかし、 頼朝 は、 大庭景義 の 「軍中は将軍の命を聞き、天子の詔を聞かず・・・」 という進言を受け入れ、総勢28万4千騎の大軍で鎌倉を出発しています。 頼朝 にとってみれば、命令が及ばない地は奥州のみとなっていました。 すでに 義経 の事は関係なく、ただ奥州を制圧することのみ