投稿

8月 28, 2011の投稿を表示しています

奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~

イメージ
1189年(文治5年)9月3日、 源頼朝 の奥州征伐によって、北海道へ逃げようとしていた藤原泰衡は、郎党河田次郎を頼ります。 しかし・・・河田次郎の裏切りに遭い、殺害されました。 これにより、清衡・基衡・秀衡・泰衡と約100年にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡します。 毛越寺 ※「征伐」という言葉について反感を抱く方もいらっしゃると思われますが、「征伐」とは「正当な戦い」という意味ではありません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源義経を自刃に追い込んだ泰衡~ 1185年(文治元年)10月18日、 源義経 は、 頼朝 追討の宣旨を得ますが、 義経 に味方する者は思うように集まりませんでした。 11月3日、 義経 は都落ちし、11月6日、大物浦から西国に逃れようとしますが、暴風により難破してしまいます。 その後行方をくらました 義経 ですが、最後は奥州藤原秀衡を頼りました。 義経 が 平泉 に入ったのは、1187年(文治3年)の春頃ではないかといわれています。 しかし、その年の10月29日、秀衡が亡くなります。 秀衡のあとを継いだのが泰衡でした。 秀衡は、 「 義経 を主君として、 頼朝 の攻撃に供えるように」 と遺言していたといいますが、 泰衡は、 頼朝 の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、 義経 の 衣川館 を攻め、自刃に追い込みます。 泰衡は、 義経 の首を 頼朝 に差し出せば、 頼朝 との「和平が可能」と考えていたのかもしれませんが・・・ 衣川館 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源頼朝・・・奥州征伐へ出陣~ 1189年(文治5年)7月19日、 頼朝 は、泰衡を征伐するため、 畠山重忠 を先陣に鎌倉を出発します。 頼朝 は、 義経 を匿う「泰衡追討の宣旨」を要求していましたが、泰衡が 義経 を討ったことによって、その大義名分が失われてしまいます。 そのため、朝廷は宣旨の発給を渋っていました。 しかし、 頼朝 は、 大庭景義 の 「軍中は将軍の命を聞き、天子の詔を聞かず・・・」 という進言を受け入れ、総勢28万4千騎の大軍で鎌倉を出発しています。 頼朝 にとってみれば、命令が及ばない地は奥州のみとなっていました。 すでに 義経 の事は関係なく、ただ奥州を制圧することのみ

恐るべき北条政子~比企能員暗殺・比企一族滅亡~

イメージ
1203年(建仁3年)9月2日朝、二代将軍 源頼家 は、 比企能員 を御所に呼び出し、 北条時政 追討の密議をしていたといいます。 (※このとき、 頼家 は、重病だったと伝えられ、8月27日には、すでに家督相続についての発表がされていました(参考: 家督相続の沙汰 )) さて、『吾妻鏡』によると・・・ この密議を聞いていた者がいます。 頼家 の母 北条政子 です。 障子を隔てて聞いていたのだそうです。 政子 は、すぐにこのことを父 時政 に連絡します。 驚いた 時政 は、 大江広元 を訪れ、 「先手をうって比企能員を征伐する」 という考えでいることを明かします。 広元 の返事は、 「武士でない自分には兵法を論ずることはできませんので、 能員を討つかどうかは、賢明なご判断を・・・」 というものだったといいます。 ※『吾妻鏡』でのこの 広元 の言葉は、「時政にすべて任せた」というものなのでしょうかね・・・? 時政 の比企討伐は、この日のうちに決行されます。 広元 の言葉を聞いた 時政 は、すぐに席を立ち、 荏柄天神社 の前で、供をしていた 天野遠景 と 仁田忠常 に、こう告げます。 「今日、比企能員を討伐するので、討手を差し向けていただきたい」 と。 すると、 天野遠景 は、 「軍兵を差し向けるまでもありません。 御前にお召しになって成敗したとしても、あの老人に何ができるでしょう」 と言ったといいます。 時政 は、様々な考えを巡らせたのでしょう。 そして、薬師如来像の供養にかこつけて 比企能員 を自邸に誘き出します。 (この像は、以前より造らせていたものだといいます。) 時政 の使者に対して、 企能員 は、 「さっそく出掛けましょう」 と返事をしますが、 時政 の招待に危険を感じた 能員 の子息や親類は、能員を制止したり、武装の兵を同行させるよう能員に訴えます。 しかし、能員は 「武装することは、かえって人の疑いを招く。 甲冑の兵士を連れていけば、鎌倉中のものが騒ぐことになる。 おそらく、仏像の開眼式を催されるかたわら、 この度の将軍の遺産分割についての話し合いがおこなわれるのであろう」 といって、聞き入れませんでした。 そして、いつ

法華経を読み続けた長尾定景~石橋山の戦い~

イメージ
長尾氏は、鎌倉権五郎景政を祖とする一族(参考: 御霊神社 (坂ノ下))。 景弘のときに相模国鎌倉郡長尾庄に住み、「長尾氏」を名乗ったといわれています。 御霊神社 長尾城址 (戸塚区長尾台)に祀られている御霊神社。 長尾城は景弘の築城と伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 長尾氏は、1180年(治承4年)の 源頼朝 の挙兵時には平家方についていました。 8月23日の 石橋山の戦い では、長尾景弘の子定景が 佐奈田与一義忠 を討ち取るという活躍をしています。 石橋山の戦い は、 頼朝 の大敗に終わりますが、周知のとおり、すぐに形勢は逆転し、10月23日、長尾定景は、 大庭景親 らとともに 頼朝 に降伏しています。 大庭景親 は、 上総介広常 に預けられた後すぐに処刑されましたが、 長尾定景は、 佐奈田与一義忠 の父 岡崎義実 に預けられたままでした。 頼朝 は、定景の処分についてその権限を 義実 に与えたのでした。 しかし、 義実 は慈悲深い者であったので、定景を殺すことができず、ただ囚人として預かっている日々を送っていました。 定景は、囚人となって以来、毎日法華経の転読を怠らなかったといいます。 1181年(治承5年)7月5日、 義実 は、 「嫁のお告げがあった」 として 頼朝 を訪ねます。 義実 が申すには、 「定景は息子の敵ですので、殺さなければ気がすまない思いでしたが、毎日、法華経を読んでいる声を聞くうちに、怨念も消えてゆきました。 もし、信仰の厚い定景を誅すれば、かえって 義忠 の冥土での支障になりかねませんので、許してやりたいと思います。」 ということでした。 法華経を信仰していた 頼朝 は、これに賛成して定景の命を助けることにしたといいます。 岡崎義実像 命を救われた定景は、その後は三浦氏の家臣として仕えていたようです。 1219年(承久元年)に起こった 源実朝の暗殺 事件では、実朝を暗殺した公暁を討ち取っています。 長尾定景一族の墓 (久成寺) 鎌倉の 久成寺 には、 長尾定景一族の墓 があります。 長尾城址 から移されたもののようですが、石碑には「上杉謙信公祖」と刻まれています。 のちの戦国大名上杉謙信は、長尾定景の子孫と伝えられています

母の哀訴に命を救われた山内首藤経俊~石橋山の戦い~

イメージ
「山内首藤氏」は、藤原秀郷の後裔といわれ、資清の代で「首藤」を名乗ります。 その後、孫の俊通が相模国鎌倉郡山内荘を領して「山内」を名乗り、「山内首藤氏」と呼ばれるようになったといわれています。 「首藤」という氏は、資清が「主馬首」(しゅめのかみ)という役職にあったため、「主馬首」の「首」と、「藤原」の「藤」に由来しているといわれています。 首藤氏は、代々源氏に仕えてきた家で、俊通は 源義朝 に仕え、妻の 山内尼 は 頼朝 の乳母を務めています。 1159年(平治元年)の 平治の乱 で、俊通は、子俊綱とともに 義朝 のものと参陣し討死しました。 「紫陽花寺」として知られる北鎌倉山ノ内の 明月院 は、俊通の菩提を弔うために、子経俊が建てた明月庵を前身としています。 「明月院やぐら」 は、上杉憲方の墓として知られていますが、一説には、経俊が俊通の菩提を弔うために造った「やぐら」であるともいわれています。 経俊は、父俊通と兄俊綱が 平治の乱 で戦死したことにより、「山内首藤」を継ぐことになります。 ただ、代々源氏に仕えていながら、1180年(治承4年)の 頼朝 の挙兵には参じず、 石橋山の戦い では、 大庭景親 に味方して 頼朝 に弓を引いてしまいます。 『吾妻鏡』によれば・・・ 頼朝 は、挙兵に際して、 安達盛長 を遣わして経俊に参陣を呼びかけていますが、7月10日の盛長の報告は、 「相模国には従う者は多くいます。 しかし・・・ 波多野右馬允義常と山内首藤滝口三郎経俊は、 呼びかけに応ずるどころか、暴言を吐く始末です」 というものでした。 石橋山古戦場 頼朝 は、 石橋山の戦い では大敗してしまいますが、その後盛り返し、10月6日には鎌倉に入ります。 そして、10月20日、富士川で平家の追討軍を敗走させると、23日には、 大庭景親 をはじめとする 石橋山の戦い の残党が 頼朝 に降服してきます。その中に経俊もいました。 頼朝 は、経俊の山内荘を没収し、身柄を 土肥実平 に預けています。 ~山内尼の頼朝への哀訴~ 11月26日、 頼朝 は経俊を斬罪に処すよう命じます。 すると、経俊の母(山内尼)が、息子の命を救いたくて泣きながら 頼朝 のもとへ参上します。 (山内尼は、 頼

源義朝の遺骨が葬られた勝長寿院

イメージ
勝長寿院 は、 源頼朝 が父 義朝 の菩提を弔うために建立され、大御堂または南御堂とも呼ばれた壮大な寺院でした。 奈良仏師成朝が呼ばれ、「黄金の阿弥陀仏」が安置されたといいます。 頼朝 は、 勝長寿院 を建立するため、鎌倉中の景勝地を探して回り、御所の東南にあった霊崛(れいくつ)を造営の場所と決めたといいます。 そして、1184年(元暦元年)11月26日、土地に縄張りをして基礎造りを始める「地曳始の儀」が行われました。 勝長寿院跡 頼朝 は、 勝長寿院 に父 義朝 の廟所を設けるため、後白河法皇に 義朝 の首の探索を依頼していました。 1185年(文治元年)8月12日、 後白河法皇は、刑官に命じて、東の獄門の辺りで 義朝 の「しゃれこうべ」を見つけ出させ、 義朝 の郎党鎌田政清の「しゃれこうべ」とともに、大江判官公朝に持たせ鎌倉へ向かわせています。 そして、8月30日、その公朝が鎌倉に到着します。 遺骨は、 文覚 の弟子が首にかけていました。 頼朝 は、片瀬まで出迎えて、父 義朝 と鎌田政清の「しゃれこうべ」を受け取ったそうです。 本蓮寺 (片瀬) 頼朝 が再建した寺で、 義朝 の遺骨を受け取った場所ともいわれています。 かつては、「鎌倉殿駒牽の松」と呼ばれる松があったそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月3日、 義朝 と政清の埋葬が行われました。 埋葬に立ち会ったのは、 頼朝 と平賀義信・大内惟義父子、毛利頼隆の源氏一門のみでした。 他の御家人は郭外に止められたといいます。 大内義信は、 新羅三郎義光 の孫で、 平治の乱 で 義朝 に従い、敗戦後、東国に逃れる 義朝 に従った七人のうちの一人でした。 毛利頼隆は、 八幡太郎義家 の孫で、父義隆は、 平治の乱 で 義朝 の身代わりとなって討死しています。 一緒に葬られた鎌田政清は、 義朝 の第一の郎党で、政清の母は 義朝 の乳母でした。 そのため、 義朝 と政清は乳兄弟とも呼ばれていました。 平治の乱 後、東国に逃れようとする 義朝 に従っていましたが、尾張国で長田忠致の裏切りに遭い、 義朝 とともに暗殺されています。 義朝と政清の五輪塔 (勝長寿院跡) ※ 勝長寿院 は、翌10月24

源頼朝大軍を率いて鎌倉入り

イメージ
1180年(治承4年)8月28日、 石橋山の戦い で敗れた 源頼朝 は、舟で安房に渡りました。 源頼朝上陸地の碑 9月17日には 千葉常胤 が300騎を率いて参陣し、9月19日には隅田川辺まで陣を進めています。 この日、 上総介広常 が2万騎を率いて参陣しています。 9月27日には、頼朝の軍は2万7千騎になったといいます。 10月2日、 千葉常胤 、 上総介広常 とともに江戸川、隅田川を渡って武蔵国に入り進軍を続けます。このとき、頼朝の軍は、3万騎にも膨れあがっていたといいます。 そして、この日、豊島清元、 葛西清重 、足立遠元が参じています。 また、 頼朝 の乳母だった 寒河尼 が息子を連れて 頼朝 のもとを訪れています。 頼朝 はその子を小山宗朝と名付け近侍として召し抱えました。 のちの 小山朝光 です。 10月4日、長井の渡しに達すると、 畠山重忠 、 河越重頼 、 江戸重長 が参じます。 この3名は、 衣笠城 を攻め 三浦義明 を討死させた者たちですが、 頼朝 は前もって 三浦一族 に言い聞かせてあったので、お互いに目を合わすだけで列に加わったということです。 そして、相模国へ進軍します。 先鋒は 畠山重忠 、殿(しんがり)は 千葉常胤 でした。 こうして10月6日、 頼朝 は鎌倉入りを果たします。 このとき頼朝は、5万騎を動員できる体制を整えていたといいます。 この間、 頼朝 は、 北条時政 を甲斐国に派遣し、 武田信義 らとともに甲斐を攻略するよう命じています。 十王岩 からの鎌倉 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鎌倉入りを進言した千葉常胤~ 『吾妻鏡』9月9日条によると・・・ 頼朝 に鎌倉入りを勧めたのは 千葉常胤 だったといいます。 常胤 は、 頼朝 の遣わした 安達盛長 に、 「今の居所は要害の地でもなければ、源氏にゆかりのある地でもありません。速やかに相模国の鎌倉に行かれるべきです。 常胤が門客らを率いて、頼朝様をお迎えに参上します。」 といったといいます。 蓮乗院 蓮乗院 は材木座 光明寺 の支院です。 千葉常胤 の守護仏といわれる阿弥陀如来像を本尊としています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~遅参を咎められた上総介広常~ 『吾妻鏡