明王院 『吾妻鏡』によると・・・ 1231年(寛喜3年)10月6日、四代将軍 九条頼経 の御願寺を 永福寺 または 大慈寺 の敷地内に建立されることが決定されます。 同時に、永福寺の境内には頼経の正妻 竹御所 の御願寺を建立することとしています。 ※竹御所の御願寺は父 源頼家 を供養するための御堂かと??? 永福寺跡 大慈寺跡碑 10月16日には、 永福寺 本堂の池の北方に五大尊堂を建立することが決定され、建立日時も決定されています。 しかし、10月19日、建設地を甘縄に変更。 安達義景 の南で、千葉時胤の北、西山の周辺とされました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 甘縄とは? 鎌倉歴史文化交流館 建設予定地となった甘縄は、長谷ではなく扇ヶ谷なのかと・・・ 長谷の 甘縄神明神社 には安達邸跡碑が建てられているので、長谷と考えてしまうかと思いますが、甘縄は坂ノ下の 御霊神社 辺りから扇ヶ谷を含めた広範な地だったようです。 鎌倉歴史文化交流館 は、安達義景邸跡ともいわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~建設延期~ ところが・・・ 10月25日の晩、大風が吹いて北条時房の公文所が焼亡。 東は 勝長寿院 橋辺りまで火が回り、西は 永福寺 の総門の内まで炎が飛び、 源頼朝の法華堂 と 北条義時の法華堂 とその本尊も灰になってしまったのだそうです。 10月27日、頼朝と義時の 法華堂 が焼失してしまったことで、 頼経 と 竹御所 の御願寺の新造は延期となってしまいます。 11月18日、頼経の祈願の五大明王像の造立が始められます。 この日、焼失した 頼朝の法華堂 の上棟式も行われています。 12月26日、五大明王の用材の穢れを除く加持式が行われます。 本尊の薬師如来・観音菩薩・不動明王が造立されています。 頼経は、来年15歳の厄年であることから、その祓いの経もあげられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~建設地は大倉の地!~ 1232年(寛喜4年)10月2日、 頼経 15歳の願と