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北条泰時の大叔母・阿波局が亡くなった!八重姫のことか?

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『吾妻鏡』によると・・・ 1227年(嘉祿3年)11月4日、御所の女官の阿波局が亡くなり、 北条泰時 は30日間の喪に服しました。 亡くなった 阿波局 は、 北条義時 の妹と考えられますが・・・ 『吾妻鏡』には 泰時 の大叔母と記されています。 義時の妹であるなら叔母のはず。 誤記なのかと思われますが・・・ もし誤記でなかったら・・・ 泰時 の母は阿波局というのが通説です。 ただ、この阿波局の詳細は不明で、 義時 の妹の 阿波局 とは別人と考えられています。 では、泰時の大叔母で阿波局と呼ばれた可能性がある女性は・・・ 伊東祐親 の娘 八重姫 。 源頼朝 の最初の妻とされ、 義時 と再婚して 泰時 を産んだという説もあります。 とんでもない推測で大笑いされるかもしれませんが、この日亡くなったのは 八重姫 の可能性があるのかも。 だとしたら、大叔母ではなく母と記すべきという疑問は残りますし、そもそも、 八重姫 は伝説の域を出ない女性なのですが・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条政子の配慮で出家した?源頼家

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源頼家の墓 (修禅寺) 1203年(建仁3年)7月、 源頼家 が重病になった事をきっかけに、権力争いを激化させていった北条と比企。 誰もが「頼家は回復しない」と考えていたようです。 そのような中で起こったのが 比企能員の変 。 『吾妻鏡』によると、 9月2日、 北条時政 は 比企能員 を自邸に誘き出し、 仁田忠常 と 天野遠景 に命じて能員を暗殺。 北条政子 の命を受けた 北条義時 が 比企邸 を攻め、比企一族を滅亡させました。 頼家の嫡子 一幡 も比企一族とともに滅びました。 しかし、比企が滅びた後、 頼家 の病気は回復へと向かいます。 比企と 一幡 が滅ぼされたと知った 頼家 は、 和田義盛 と 仁田忠常 に時政討伐を命じますが叶いませんでした。 そして9月7日、 政子 の配慮により出家します。 政子の配慮??? すでに頼家に従うものはなく、このままでは謀反人に担ぎ出される可能性もあり、そうなれば、北条氏によって暗殺されてしまう可能性もあるため、頼家の命を救うには出家しかなかったのかもしれません。 出家した 頼家 は9月29日、伊豆国の 修禅寺 へ出発します。 先陣の随兵は百騎。 次に女騎が十五騎。 次に神輿三帳。 次に小舎人童一人 後陣の随兵は二百餘騎だったそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』には、政子の配慮で出家したという頼家ですが、『愚管抄』には、8月末日に自ら出家したことが記されています。 北条氏が不利にならないように記されているのが『吾妻鏡』ですので、政子の配慮をどこまで信じていいかわかりませんが・・・ いずれにしても、修禅寺に流された頼家は、翌年7月18日に暗殺されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

阿波局の訴え「実朝が危ない!」~すでに始まっている時政失脚劇~

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兄の 源頼家 が失脚したことで、三代将軍となることが決まった 源実朝 。 1203年(建仁3年)9月10日、実朝は母の 北条政子 のもとから、 北条時政 の屋敷に移ります。 乳母の 阿波局 も従いました。 しかし・・・ 9月15日、 阿波局 が 政子 に「時政の後妻牧の方の不審な動静」を訴えます。 実朝 に危害が加えられることを心配した政子は、 北条義時 ・ 三浦義村 ・ 結城朝光 を派遣して実朝を取り返します。 そして、 時政 には成人するまで自分のもとで育てると伝えたのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 比企を討って実朝を将軍に据えることは、牧の方にとっては第一段階。 最終目的は、娘婿の 平賀朝雅 を将軍に据えること。 2年後、失敗して時政とともに鎌倉を追放されてしまいます・・・ 「時政が ふるさとにのこす 露の墓」 伊豆の国市の 願成就院 にある 時政墓 に建てられた水原秋櫻子の句碑。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

比企能員の変~『吾妻鏡』と『愚管抄』~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1203年(建仁3年)8月27日、病床にあった二代将軍 源頼家 の容態が悪化したため、以下の譲与が発表されます。 関西38ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの 実朝 ) 関東28ヶ国の地頭職と総守護職を長子一幡 この決定に一幡の祖父 比企能員 が憤慨し、千幡の乳母夫の北条氏を滅ぼそうと考えた・・・ ということのようですが、 慈円の『愚管抄』によると・・・ 源頼家 は、 大江広元 の屋敷で倒れ、そのまま広元邸で病の床に就きます。 8月末日には自ら出家して、家督を一幡に譲ることを決めていたのだといいます。 それでは困る 北条時政 は 比企能員 を討つことにした・・・ ということのようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ おそらく・・・ 『愚管抄』の記述の方が真実に近いのかもしれません。 だとすると、 比企能員 は一幡が跡継ぎに決まっているので、焦る必要はありません。 一方の 北条時政 は、形勢を逆転するために急を要します。 そして、頼家が出家した翌々日には 比企能員 を暗殺し、比企一族を滅ぼしました。 能員の油断を突いたということなのかもしれません。 近衛家実の『猪熊関白記』や藤原定家の『明月記』には・・・ 「朝廷は、将軍頼家が9月1日に死去したため、弟に継がせたいという幕府の申請をうけ、9月7日、弟を征夷大将軍に任命し、実朝の名を与えた」 ということが記されているようです。 この内容からすると、 時政 ・ 政子 ・ 義時 は「頼家は死ぬ」と決めつけていたようです。 そうでなければ、時政の行動を政子が許すとは思えません・・・ 比企一族滅亡の地 (妙本寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

『吾妻鏡』が伝える比企邸襲撃

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1203年(建仁3年)9月2日、 北条時政 邸で 比企能員 が暗殺されます。 能員暗殺の知らせを受けた比企一族やその郎党は、 源頼家 の嫡男の一幡の館(小御所)に籠って防戦体制を整えますが・・・ 未の三刻(午後2時半頃)、 北条政子 が比企一族を滅ぼすよう命令を下します。 派遣されたのは、 北条義時 ・ 北条泰時 ・ 平賀朝雅 ・ 小山朝政 ・長沼宗政・ 結城朝光 ・ 畠山重忠 ・榛谷重朝・ 三浦義村 ・ 和田義盛 ・和田常盛・和田景長・土肥惟光・後藤信康・所朝光・尾藤知景・工藤行光・金窪行親・ 加藤景廉 ・加藤景朝・ 仁田忠常 らの大軍勢。 北条軍に攻めかかられた比企軍は、能員の子比企宗員・比企時員・比企五郎、川原田次郎(比企能員の猶子)、能員の娘婿の笠原親景・中山爲重・糟谷有季らが死を賭して防戦。 申の刻(午後4時頃)まで激戦が続き、北条軍は加藤景朝・ 加藤景廉 らが負傷して後退しますが、 畠山重忠 が力の残っている郎党に入れ替えて攻め込むと、比企軍はその威力に適わず、館に火を放って一幡の前で自刃したのだといいます。 一幡もこの災難を逃れることはできませんでした。 能員の嫡子だった与一兵衛尉は女装して逃亡をはかりますが、 加藤景廉 に梟首され、能員の妻の父渋川刑部丞も処刑されました。 比企一族の供養塔 (妙本寺) 一幡の袖塚 (妙本寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺

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1203年(建仁3年)9月2日朝、二代将軍 源頼家 は、 比企能員 を御所に呼び出し、北条時政追討の密議をしていました。 この密議を聞いていた者がいます。 頼家 の母 北条政子 です。 障子を隔てて聞いていたのだそうです。 政子 は、すぐにこのことを父 時政 に連絡します。 驚いた 時政 は、 大江広元 を訪れ、 「先手をうって比企能員を征伐する」 という考えでいることを明かします。 広元 の返事は、 「武士でない自分には兵法を論ずることはできませんので、能員を討つかどうかは、賢明なご判断を・・・」 というものだったといいます。 ※『吾妻鏡』でのこの 広元 の言葉は、「時政にすべて任せた」というものなのでしょうかね・・・? 時政 の比企討伐は、この日のうちに決行されます。 広元 の言葉を聞いた 時政 は、すぐに席を立ち、 荏柄天神社 の前で、供をしていた 天野遠景 と 仁田忠常 に、こう告げます。 「今日、比企能員を討伐するので、討手を差し向けていただきたい」と。 すると、 天野遠景 は、 「軍兵を差し向けるまでもありません。 御前にお召しになって成敗したとしても、あの老人に何ができるでしょう」 と言ったといいます。 時政 は、様々な考えを巡らせたのでしょう。 そして、薬師如来像の供養にかこつけて 比企能員 を自邸に誘き出します。 (この像は、以前より造らせていたものだといいます。) 時政 の使者に対して、 能員 は、 「さっそく出掛けましょう」 と返事をしますが、 時政 の招待に危険を感じた 能員 の子息や親類は、能員を制止したり、武装の兵を同行させるよう能員に訴えます。 しかし、能員は 「武装することは、かえって人の疑いを招く。 甲冑の兵士を連れていけば、鎌倉中のものが騒ぐことになる。 おそらく、仏像の開眼式を催されるかたわら、この度の将軍の遺産分割についての話し合いがおこなわれるのであろう」 といって、聞き入れませんでした。 一方、 時政 は、鎧兜に身を固め、中野能成と市河行重に弓矢を携えて門に構えるよう指示。 天野遠景 と 仁田忠常 は、腹巻(簡易な鎧)を着用し、西南の脇戸の内側に構えていました。 時政邸にやっ