1331年(元弘元年)4月29日、鎌倉に重大な知らせを持った飛脚が到着します。 内容は、「 後醍醐天皇 が倒幕を企て、円観、文観、忠円らが関東調伏の祈祷をしている」というものでした。 この知らせは 後醍醐天皇 の側近吉田定房からのものだったといいます。 ※当時、円観は 後醍醐天皇 の帰依を受け、京都法勝寺(廃寺)の住持を勤めていました。 密告を受けた鎌倉幕府は直ちに2人の使者を 六波羅探題 へ送り、 後醍醐天皇 の側近 日野俊基 と、祈祷を行っていたという円観、文観、忠円を逮捕します。 そして、円観らは鎌倉に送られました。・・・ 元弘の変 鎌倉では、円観らが祈祷を行っていたという現場の図面が証拠として提出され、「間違いなく調伏の作法である」ということが判明します。 侍所に引き渡され、火責め・水責めの拷問にあった文観は調伏の祈祷を白状し、忠円は 後醍醐天皇 が 東大寺 、 興福寺 、 比叡山 の僧兵を味方につけようとしていることや、 日野俊基 が挙兵を企てていたことを白状したといいます。 円観は徳業の高い僧であったためか拷問されずにすんだようです。 その後、円観は陸奥へ、文観は硫黄島へ、忠円は越後へ流罪となりました。 日野俊基 は、翌年6月、葛原ヶ岡で処刑、さきの 正中の変 で佐渡流罪となっていた日野資朝も同じ頃に現地で処刑されたといいます。 後醍醐天皇 は笠置山で挙兵しますが、捕らえられ隠岐に流されています。 宝戒寺 鎌倉幕府滅亡 後、円観は罪を赦せられて法勝寺に戻り、 東大寺 の大勧進職に就いたのだといいます。 1335年(建武2年)には、 後醍醐天皇 が 足利尊氏 に命じて創建させた 宝戒寺 の開山となりました。 円観が開山となったことで、 宝戒寺 には円頓戒の道場が開かれています。 軍記物の『太平記』ですが・・・、 一説には円観が編纂に携わっていたといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆