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源実朝ゆかりの江島神社辺津宮~江の島~

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辺津宮 江島神社 の 辺津宮 は、1206年(建永元年)、三代将軍 源実朝 の命によって、 鶴岡八幡宮 の供僧良真によって創建されたと伝えられています。 奉安殿 奉安殿 は、「八臂弁財天」と「妙音弁財天」を祀る八角の堂。 八坂神社 八坂神社 は、江島神社の境内末社。 7月に行われる祭礼は 「江の島天王祭」 とも呼ばれ、神輿が海に入り、対岸の小動岬にある小動神社へと神幸します。 江島霊迹建寺の碑 江島霊迹建寺の碑 は、1204年(元久元年)、 源実朝 が宋国に使節を送った際、宋の慶仁禅師より贈られた石碑と伝えられています。 白龍王黄金浄水 (銭洗白龍王) 御霊水で金銭を洗うと金運向上・財宝福徳の御利益があるのだとか。 江島神社 https://www.yoritomo-japan.com/enosima-jinzya.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

摩々(まま)~源頼朝の乳母と源義朝の乳母~

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『吾妻鏡』治承5年(1181)閏2月7日条によると・・・ 源頼朝 が誕生したときに乳付(授乳)した乳母は、尼となって摩々(まま)と呼ばれていたそうです。 相摸国の早河庄に住んでいたようで、この日、頼朝は摩々の屋敷・田畑を安堵するよう地頭に命じ、同年11月29日には早河庄の年貢を免除しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ところで・・・ 『吾妻鏡』には、摩々という乳母がもう一人登場します。 文治3年(1187年)6月13日条によると、 頼朝 のもとに父 義朝 の乳母が訪ね、 平治の乱 後、京都から相模国の早河庄へ下り、庄内の田七町を耕してきた事を語っています。 この時、頼朝は、その土地を領有して支配することを許しています。 この義朝の乳母は、建久3年(1192年)2月5日条にも登場し、摩々局と呼ばれています。 この時の年齢が92歳。 頼朝に「望みがあれば何でも叶えよう」と尋ねると、摩々局は、早河庄内の課役免除を総領に命じてくれるよう願います。 頼朝は三町の土地を加えた上で、平盛時を呼んで土肥遠平に課役免除を命ずるよう伝えています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ さて・・・ 頼朝 の乳母と 義朝 の乳母が同じ名で、同じ場所に住んでいるということは、同一人物なのでしょうか? 別人だとすると親子か親族なのでしょうか・・・ もし、同一人物だとすると・・・ 頼朝が生まれたのは1147年。 摩々は1192年で92歳。 ということは、47歳のときに乳付したということになりますが、年齢からすると少々無理がありそうです。 乳付には授乳という意味だけでなく「授乳できるようにすること」という意味もあるのだと言いますが、『吾妻鏡』には、頼朝に乳付した乳母は青女と記されています。 青女は若い女性のことを意味しているようですので、47歳の女性に使う言葉ではなさそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 頼朝の乳母というと、比企尼、寒川尼、山内尼が知られています。 頼朝に授乳したという摩々については、山内尼と同一人物という説もあるようです。 山内尼は、摩々が登場する前年の11月26日に『吾妻鏡』に登場し、 石橋山 で頼朝に敵対して捕らえられた息子・山内経俊の助命を願っています。 経俊は、頼朝に敵対したことで山内荘を没収され、身柄

源義朝を殺した長田忠致

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1159年(平治元年)12月27日、 平清盛 に敗れて都を落ちた 源義朝 は、東国へと向かう途中で、 尾張国野間 に立ち寄ります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『平治物語』によると、 12月29日、 尾張国野間 に着いた 義朝 は、長田忠致のもてなしを受けます。 義朝は、急いでいるので馬を用意するよう申しつけますが、忠致に留められて正月三日まで逗留することになります。 その間、息子もの景致を呼び寄せた忠致は、義朝の暗殺を企てます。 そして、1月3日、 義朝 に湯浴みをすすめ、橘七五郎、弥七兵衛、浜田三郎の三名に義朝殺害を命じます。 三名は、義朝の従者・金王丸が垢すりをしていたため、なかなか襲うことができませんでしたが、金王丸が着替えを取り出た隙に、橘七五郎が義朝を組み伏せ、弥七兵衛と浜田三郎が左右の脇の下を二度ずつ刺して絶命させました。 湯殿に戻った金王丸は、義朝を殺した三名を湯殿の入り口で斬り伏せ、景致を討つため奮戦した後、京都の 常盤御前 のもとに馬を走らせます。 1月5日早朝、常盤御前のもとにたどり着いた金王丸は、義朝が長田忠致に討たれたことを知らせています。 常盤御前は義朝の妾。 御湯殿跡 (愛知県知多郡美浜町) そのころ、 義朝 の乳兄弟と呼ばれた鎌田政家は、忠致と酒を呑んでいましたが、義朝が殺されたことを知って立ち上がったところを、酌をしていた男に二度刺され、背後から景致に首を落とされました。 鎌田政家の妻は忠致の娘。 政家の死を知ると、すぐに駆けつけ、政家の刀で自殺したのだそうです。   鎌田政家夫妻の墓 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『平治物語』によると、 1月7日、長田忠致・景致父子は、恩賞を貰おうと、 源義朝 と鎌田政家の首を持って上洛。 1月23日、忠致は壱岐守、景致は兵衛尉に任じらますが・・・ 忠致・景致父子が不満を申し立たことから、 平清盛 の怒りを買い、誅殺されそうになって、慌てて尾張に帰ったのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『伝説』によると、 それから20年後の1180年(治承4年)、 源義朝 の嫡男・ 源頼朝 が挙兵すると、長田忠致・景致父子は、頼朝に従ったのだと言います。 頼朝は長田父子に「勲功があったなら美濃尾張をやる

源頼朝挙兵の日は8月17日。

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大庭景親 は、 鎌倉権五郎景政 が開発した 大庭御厨 の経営を行っていた有力豪族。 1180年(治承4年)4月、全国の源氏に 平家打倒の令旨 を発した以仁王が源頼政とともに挙兵すると、景親はその追討の任に当たりました。 『吾妻鏡』によると、在京中に景親は上総忠清にあって、長田忠致が書いた手紙を読み聞かされます。 その内容は、 「北条時政と比企掃部允は源頼朝を将軍にして、平家に反逆しようとしている」というもの。 相模国に戻った景親は、佐々木秀義を呼んで、頼朝に謀反の疑いがあることを話しています。 秀義は、子の定綱を頼朝のところへ遣わして、景親の話を報告すると、頼朝は挙兵の日を8月17日と決定しました。 源頼朝旗挙げの碑 (三嶋大社) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝の挙兵と山木兼隆と北条政子

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源頼朝 は、源氏再興の挙兵をするに当たって、まず伊豆国の目代・ 山木兼隆 を攻めることにします。 当時の伊豆国の知行国守は「平家にあらずんば人にあらず」と言い放った平時忠。 兼隆は、時忠から目代に任命されていました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると、 山木兼隆 (平兼隆)とは・・・ 父の信兼の訴えによって 伊豆国 の山木郷に配された流人でした。 平家の一流の氏族ですので、しばらくいるうちに 平清盛 の威光を借りて、郡や郷にその力を見せつけていました。 源氏再興を図ろうとする 源頼朝 は、この兼隆を国敵として最初に討つこととします。 私的な恨みもあったようですが・・・。 その恨みとは??? 頼朝 は、挙兵する数年前に 北条時政 の娘・ 政子 と結婚しています。 結婚したのは、長女・大姫の年齢からして1177年(治承元年)頃ではないかと考えられています。 『曽我物語』などでは・・・ 北条時政 が大番役で京に上っているときに恋仲となり、それを知った時政は、目代の山木兼隆に嫁がせようとしますが、 政子 は頼朝のもとへと走り、 走湯権現 (伊豆山神社)に匿ってもらったのだと伝えています。 頼朝の兼隆に対する恨みとは、政子が関係することなのでしょうか? 『吾妻鏡』によると・・・ 1186年(文治2年)4月8日、 静の舞 を観覧した政子は、頼朝に次のように語っています。 「貴方が流人として伊豆にいるとき、私は貴方と結ばれました。 しかし、父時政は平家への聞こえを心配して、私を閉じ込めました。 それでも私は、闇夜をさまよい、雨をしのいで貴方のところに参りました」 『曽我物語』が伝えていることと合うような感じもしますが・・・ 平時忠の前の知行国守は源仲綱。 1180年(治承4年)4月9日、以仁王が平家打倒の 令旨 を発出して挙兵しますが、これは仲綱と父の頼政の申し入れによるものです。 5月に仲綱と頼政は 平等院 で最期を遂げていますが、知行国守が時忠に代わって兼隆が目代に任命されたのは、その後のことと考えられます。 しかも、兼隆が伊豆国へ流されたのは1179年(治承3年)のことだといいます。 政子との事が原因で恨みがあったのではなさそうな感じですが・・・。 ただ