別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2026年3月17日火曜日

石戸蒲ザクラ~源範頼ゆかりの桜 北本さくらまつり2026~




埼玉県北本市にある東光寺の石戸蒲ザクラは、日本五大桜のひとつで国指定の天然記念物。

その名は、源頼朝の異母弟で「蒲冠者」と呼ばれた源範頼の伝承にちなんでつけられました。

範頼は、1193年(建久4年)5月に兄の頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起こった曽我兄弟の仇討ちをきっかけに謀反を疑われてしまいます。

伊豆修禅寺に幽閉された後、間もなく梶原景時に攻められ自刃したのだと伝えられていますが、北本市には生き延びて石戸宿に辿り着いたという伝説が残されています。

石戸蒲ザクラは、範頼の持っていた杖が根付いたという桜。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


【板石塔婆の公開】
東光寺
3月28日(土)・29日(日)
10:00~15:00
板石塔婆は、かつて蒲ザクラの根元に置かれていたもの。

【北本太鼓かばざくら】
東光寺境内
3月29日(土)
10:00~


【開花予想】
3月16日現在のウェザーニュースの予想では・・・
3月25日の開花・3月30日満開。


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日本五大桜

富士裾野の巻狩りの際、源頼朝が宿所とした井出館にある狩宿の下場ザクラも日本五大桜のひとつ。


(富士宮市)

富士裾野の巻狩りが行われたとき、曽我兄弟(十郎祐成と五郎時致)が工藤祐経を討つという事件が発生(曽我兄弟の仇討ち)。

範頼は鎌倉で留守をしていましたが・・・

頼朝も討たれたという誤報が伝わり、心配する北条政子に対して範頼は「私がいるから心配ない」と言ったのだといいます。

後日、それを聞いた頼朝は、範頼の謀反を疑ったのだとか。



石戸蒲ザクラ


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鎌倉の桜


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金王桜まつり2026~金王八幡宮の花見と金王丸尊像御開帳~




東京渋谷にある金王八幡宮は、源頼朝の父源義朝に仕えた金王丸の名がつけられた神社。

金王丸は、源義経を襲撃した土佐坊昌俊と同一人物ともいわれます。




そして、社殿前に植えられている金王桜は、源頼朝が鎌倉の亀ヶ谷館(壽福寺)から移植させたという「憂忘桜」(うわわすれのさくら)。

鎌倉の材木座原産という桐ヶ谷と同じで、八重と一重の花が混生している珍しい桜。

毎年、見ごろとなる時期に「金王丸祭」と「金王桜まつり」が行われています。

年に一度の金王丸尊像の開帳も。




【金王丸祭】
3月28日(土)
11:30~12:00

【金王丸尊像特別開帳】
3月28日(土)
11:30~14:00

【金王丸桜まつり】
3月28日(土)
12:00~17:00
3月29日(日)
11:00~17:00

境内には、屋台物販等の出店や飲食スペースも!


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


金王桜まつり





金王八幡宮は、渋谷駅東口から徒歩6分。


金王桜




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鎌倉の桜


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2026年3月16日月曜日

妙本寺の桜~白拍子・微妙が舞った花見の宴~




妙本寺祖師堂前に植えられているソメイヨシノは、鎌倉の中で最も早く開花する桜。

妙本寺のある比企ヶ谷には、源頼朝の乳母を務めた比企尼の屋敷や尼の甥にあたる比企能員の屋敷がありました。


『吾妻鏡』によると・・・

1202年(建仁2年)3月8日、比企能員は比企邸に源頼家を招いて花見の宴を催しています。

宴では京の白拍子微妙が舞いました。

微妙が鎌倉に来た理由は、父の行方を捜すため。

3月15日、頼家の御所で微妙の舞を観た北条政子は、微妙の父を捜すよう命じましたが・・・

8月5日、すでに亡くなっていたことが知らされました。

8月15日、微妙は亡き父の追善供養をするため寿福寺栄西の宿舎で出家。

御家人の古郡保忠と熱愛中だったようですが、保忠が領地の甲斐国へ下っている間に尼となってしまったのだとか。

その後、微妙がどうなったのかは不明・・・



妙本寺の桜


妙本寺


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鎌倉の桜

鶴岡八幡宮の桜


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2026年3月15日日曜日

小田原かまぼこ桜まつり2026~小田原城址公園の花見イベント~




「小田原かまぼこ桜まつり」は、小田原城址公園で開催される「神奈川最大級のお花見イベント」。

蒲鉾(かまぼこ)の伝統技の披露やクラフトビール、キッチンカーが集結。

蒲鉾の大特価での販売も。


2026年3月28日(土)・29日(日)
10:00-17:00
雨天決行・荒天中止


小田原城址公園は、小田原城天守閣やお堀を背景に約300本のソメイヨシノが植えられている花見の人気スポット。

3月20日(金祝)から「小田原城幻想夜桜」(ライトアップ)が始まる予定。

4月4日(土)・5日(日)には「小田原おでんサミット」が開催されます。



小田原かまぼこ桜まつり


小田原城址公園の桜

長興山紹太寺のしだれ桜


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小田原おでんサミット

北條五代祭り

小田原城


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鎌倉の桜


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源頼朝旗挙の祭2026~湯河原・真鶴の頼朝祭~


源頼朝は河内源氏の棟梁源義朝の嫡男。

1159年(平治元年)、父義朝と平清盛が戦った平治の乱で初陣を果たしますが、清盛に敗れ、翌年、伊豆の蛭ヶ小島に流されます。

それから約20年後・・・

1180年(治承4年)4月27日、以仁王の平家打倒の令旨を受け取った頼朝は、8月17日、信仰していた三嶋大社の祭礼の日に挙兵。

目代の山木兼隆を討ち取った後、相模国へ進軍します。

しかし、8月24日、石橋山の戦いで大敗。

8月28日、安房国で再起を図るため、土肥実平の手引きで真鶴から安房国へと渡ります。


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(湯河原町)

「源頼朝旗挙げ武者行列」は、石橋山へと出陣する様子を再現したイベント。

頼朝が戦勝を祈願したという五所神社から桜木公園までを武者姿などの土肥実平源頼朝北条時政北条政子がパレードします。

土肥実平の菩提寺・城願寺では、実平と頼朝主従の法要が営まれます。

2026年4月5日(日)
9:00~


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(真鶴町)

「源頼朝旗挙祭」は、源頼朝が船出した岩海岸で開催されるイベント。

伝承によると、岩海岸から船出する頼朝に住民たちは海の幸をふんだんに使った食事を振る舞ったのだとか。

「源頼朝旗挙祭」では、その伝承に基づいて「頼朝旗挙鍋」が振舞われます。

2026年(令和8年)3月22日(日)
11:00~


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土肥祭

源頼朝旗挙祭2026



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湯河原・真鶴の源頼朝伝説

歴史めぐり源頼朝


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浅井家最強の家臣 遠藤直経~信長を暗殺しようとした謀将~


『繪本豐臣勲功記』
(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース


1565年(永禄8年)の永禄の変で、室町幕府の十三代将軍足利義輝が殺害された後、室町幕府再興のため越前の朝倉義景を頼っていた義輝の弟義昭は、1568年(永禄11年)、義景を見限り岐阜の織田信長を頼ります。

信長は義景を将軍とするため上洛を計画しますが、上洛を果たすためには北近江の小谷城を本拠としていた浅井長政との同盟は不可欠でした。

信長は自身の妹であるお市の方を長政に嫁がせ、義兄弟の契りを結ぶことで強固な協力関係を築こうとします。


天下布武


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『真書太閤記』などによると・・・

1568年(永禄11年)8月7日、信長は上洛の前に長政と対面するため浅井領の佐和山へ赴きます。

佐和山城で饗応を受けた信長は、義昭を擁して上洛することを相談したようですが、長政の重臣・遠藤喜右衛門(直経)は、信長の野心をいち早く見抜き、浅井家にとって危険な存在である信長を今のうちに毒を用いて暗殺すべきと考えます。

その事を長政に相談しようとしますが、長政は座を立とうとしなかったため、密かに小谷へ帰り、長政の父久政にに謀略の許可を得ようとします。

しかし、久政に「人の道に反する。たとえ成功したとしても信長を恐れて毒を盛ったとなれば弓箭の家の恥」と断られてしまったのだか。

それでも・・・

信長を殺さなければ後々後悔することになると思い定めていた喜右衛門は、佐和山に戻ると信長と刺し違えようとしますが、木下藤吉郎の機転によって阻止されたのだと伝えられています。

その後、長政とお市の方の婚儀が執り行われますが・・・

喜右衛門は、「成菩提院に宿泊している信長を討つべき」と長政に進言したが受け入れられなかったとも伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1568年(永禄11年)9月7日、織田信長は、足利義昭を擁して岐阜城を出発。

上洛の従軍要請を拒んだ六角義賢・義治父子を破り、9月26日入京。

義昭の兄義輝を殺害した三好勢を掃討し、10月には義昭を征夷大将軍に就任させました。

当初、信長と義昭は協力関係にありましたが、次第に信長が義昭の権限を制限するようになり対立。

義昭は将軍の権威を用いて各地の有力大名を動かすようになります(信長包囲網)。

信長と同盟を結んでいた浅井長政も、信長が浅井氏旧縁の朝倉氏を攻撃したことで義昭が呼びかけた打倒信長の共同戦線に加わり、信長を窮地に追い込みますが・・・

武田信玄の急死などにより包囲網が崩壊すると、信長は総攻撃を開始。

1573年(天正元年)、朝倉氏が滅亡、その直後に小谷城も落城し、長政は自害して浅井氏は滅亡しています。

信長を危険な存在と見抜いていた遠藤喜右衛門は・・・

姉川の戦いで自軍の敗戦が色濃くなると、信長軍の武将になりすまし、自身が討取ったとする武将の首を持参して信長の本陣に潜入し、信長を討ち取ろうとしました。

しかし、寸前のところで信長の家臣・竹中重矩に見破られ、討取られたのだと伝えられています。


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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