別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2026年8月31日月曜日
龍口法難会の胡麻の餅
藤沢片瀬の龍口寺や鎌倉の常栄寺の龍口法難会は「ぼたもち供養」とも呼ばれています。
そして、配られる牡丹餅は「難除け牡丹餅」「首継ぎの牡丹餅」とも呼ばれます。
これは、龍ノ口刑場へ護送される途中の日蓮に桟敷の尼が胡麻の餅を捧げられた故事に由来し、胡麻の餅のおかげで日蓮が処刑を奇跡的に免れたことから、災難除けや延命のご利益がある縁起物とされています。
2026年8月30日日曜日
日向の里山に咲く彼岸花~源頼朝・北条政子ゆかりの里山風景~
小出川彼岸花まつり2026
2026年8月29日土曜日
2026年8月28日金曜日
桟敷の尼の伝説と源頼朝と日蓮
1187年(文治3年)8月15日、源頼朝は鶴岡八幡宮で放生会を催します。
その際、由比ヶ浜では千羽鶴の放生が行われたという言い伝えがありますが・・・
その千羽鶴の放生会を頼朝が観覧するための桟敷(展望台)があった場所が、現在の常栄寺の裏山だったのだと伝えられています。
この文治3年に誕生したのが、後に頼朝の桟敷を管理するようになる桟敷の尼なのだとか。
後世の創作である可能性が極めて高い伝承ですが、この伝承には1271年(文永8年)の日蓮の龍ノ口法難が関係しています。
頼朝の千羽鶴の放生会は、江戸時代後期になると浮世絵に描かれるようになります。
その頃に生まれたのが龍ノ口刑場へ護送される途中の日蓮に、信者の桟敷の尼が胡麻の餅を捧げ、日蓮が奇跡的に処刑を免れたというドラマチックな物語。
この話が各地で語り継がれるようになり、最終的には鎌倉時代の偉人・源頼朝が催した鶴岡八幡宮の放生会と結び付けられて語られるようになったのかもしれません。
桟敷の尼は、日蓮の本物の手紙の中にも書かれている人物なので、鎌倉に実在したことは確かなようですが・・・
桟敷の尼の伝承が伝説の域を出ないとすると、「桟敷」とは何なのか?
日蓮は、信者を呼ぶときは本名ではなく、住んでいる地名を冠していたようなので、桟敷とは、頼朝の展望台のことを言っているのではなく地名のことのようです。
では「桟敷の尼」とは誰のことか?
一つは、日蓮の直弟子六老僧の一人で、材木座の実相寺を開いた日昭の母親とする説。
もう一つは、日昭の兄・印東祐信の妻とする説。
常栄寺では後者をとっているようですが、どちらの説にしても・・・
龍ノ口法難後の日蓮を支え続けてきた熱心な信者。
頼朝が伊豆に流された際に、その生活を支え続けてきた比企の尼をはじめとする乳母のような存在だったのかもしれません。
日蓮が鎌倉で説いた法華経は、人間だけでなく動物なども含めたすべての命が仏になれることを説いたもの。
頼朝が催した鶴岡八幡宮の放生会は、捕らえられた魚や鳥などの生きものを野外や海に放ち、殺生を戒めて命を救う法会で、法華経の思想が強く影響されている儀式です。
法華教信者であり観音信者だった頼朝は、伊豆の流人時代には毎月18日の観音菩薩の縁日に放生を欠かさなかったのだといいます。
鎌倉は、その法華教信者だった頼朝が創った武家の都、日蓮はそこで法華経こそ真の教えと説きました。
「頼朝が千羽鶴の放生会を観覧するために作った桟敷に、後に桟敷の尼という法華教信者が住み着き、日蓮のために胡麻の餅を捧げた」という桟敷の尼の伝説は、頼朝と日蓮の法華経の因縁から生まれたものだったのかもしれません。
参考までに、常栄寺の伝承では、桟敷の尼は比企の尼の養子となった比企能員の妻の妹とされています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2026年8月27日木曜日
伊勢原観光 道灌まつり~2026年10月3日・4日~
「道灌まつり」は伊勢原市の観光イベント。
伊勢原市で生涯を閉じた戦国武将・太田道灌にちなんで付けられた名称です。
祭のハイライトは「太田道灌公鷹狩り行列」と「北条政子日向薬師参詣行列」。
毎年、有名人が太田道灌と北条政子に扮して行われています。
「太田道灌公鷹狩り行列」、「北条政子日向薬師参詣行列」は・・・
10月4日(日)。
道灌と政子に扮する有名人は、9月1日発表の予定。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2026年8月26日水曜日
武士の流鏑馬~西行が源頼朝に語った弓馬術~
鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、1186年(文治2年)、西行から弓馬の故実や秘訣を聞いた源頼朝が、翌年の放生会で奉納したことに始まるのだと伝えられています。
頼朝が西行から聞いた弓矢術とは?
頼朝が鶴岡八幡宮で流鏑馬を始めてから半世紀が経った『吾妻鏡』(1237年(嘉禎3年)7月19日条)には、三代執権北条泰時が弓馬の名人である海野幸氏に孫の時頼の流鏑馬の指導を求めた時の事が記録されています。
この時、幸氏は頼朝の時代を回想して語りますが、その内容は・・・
当時は、弓に矢を番える(つがえる)際に「弓を一文字に持つ(地面と水平に持つ)」ことが作法だったようですが、西行は「一文字(真横)に寝かせてしまうと、矢を番えた後に『弓を垂直に立ち上げて、引き絞る』という次の動作へ移るのが遅れてしまうので、弓の上部を斜め上に向けた状態で矢を番えるべき」と説いたのだとか。
この教えには、それまで弓を一文字に持っていた下河辺行平・工藤景光・和田義盛・望月重隆・藤沢清親・諏訪盛澄・愛甲季隆などの弓の名手も「確かにその方が圧倒的に速く射れる!」と納得したのだと伝えられています。
弓の上部を斜め上に向けた状態
(イメージ図)
流鏑馬で使用する弓は2メートル以上。
そのため、鎌倉武士たちは、風の影響を受けないように、あるいは、馬の首にあたらないようにするなどの理由から、地面と水平に弓を構えて矢を番えていたのだそうです。
西行が頼朝に語った弓馬術は、西行の先祖藤原秀郷が大成させた実戦的な武家兵法。
西行は「弓を一文字に持つ」ことの不適切さとともに、「臨戦態勢」としての緊張感や美しさに欠けるとも説いています。
弓馬の作法は、「心構え」や「威厳」を神仏や主君に示すものであるので、弓を水平に寝かせている状態では、「すぐにすぐに射るようには見えず、礼儀に外れたものだ」と指摘したようです。
鶴岡八幡宮の例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。
西行が頼朝に語った「無駄のない動きと美しさ」が組み込まれた弓馬術です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
登録:
投稿 (Atom)












































