別冊『鎌倉手帳』

okadoのブログは、『鎌倉手帳』(寺社散策・観光)の別冊。
鎌倉の寺社・歴史・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。
鎌倉の歴史にかかる関係地・寺社の情報も。




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2019年7月16日火曜日

歩く鎌倉:寺社と景色と歴史と。

『鎌倉手帳』別冊
『okadoのブログ』

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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鎌倉で立正安国論を書いた日蓮

日蓮聖人像
妙本寺


1222年(承久4年)、現在の千葉県鴨川市(旧安房郡天津小湊町)で誕生した日蓮

1233年(天福元年)に清澄寺(千葉県鴨川市)に入門し、1238年(暦仁元年)、16歳で出家して是聖房蓮長と名乗ります。

その後、比叡山や高野山などでも学んでいますが、生涯よき師に巡り会うことがなかったという日蓮。

書物を師として学んだともいわれています。

そして、「法華の教えこそ釈迦が本当に説きたかったもの」という結論に達します。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1253年(建長5年)、法華宗を開いた日蓮は、翌年、鎌倉に出て布教を開始しました。

名越の松葉ヶ谷に草庵を結んだのだと伝えられていますが、その場所が何処なのかは特定されていません。


日蓮乞水

日蓮乞水は、1254年(建長6年)、名越切通を越えて鎌倉に入った日蓮が、持っていた杖で地面を突き刺して湧き出させたという伝説の水。

日蓮が鎌倉に入った頃に弟子となったのが、天台宗の僧であった日昭と、日昭の妹の子日朗でした。

(日昭が開いた寺)

(日朗が開いた寺)


日蓮辻説法跡

日蓮は、小町大路を中心に辻説法を行っていました。

日蓮が辻説法を始めた頃の鎌倉は、天災地変があいついで起こっていたといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉で布教を続けてきた日蓮は、1260年(文応元年)7月16日、『立正安国論』を書き上げ、宿谷光則を通じて当時の最高権力者・北条時頼に提出します。

その冒頭には、

「天変地異・飢饉・疫病が遍く天下に満ち広く地上を覆っている。

牛馬はそこかしこに倒れ人の屍は路にあふれている。

死者は大半を超へ、これを悲しまない人は一人もいない」

と記されています。

この頃の鎌倉は、地震や洪水などの自然災害が頻発していました。

当時の鎌倉の街は『立正安国論』の冒頭に記されたとおりの状況であったと考えられています。

さらに、法然の念仏を批判し、

「念仏を禁止して正しい教えを広めなければ外国の侵略があり内乱が起こる

と予言しています。

蒙古襲来(元寇)二月騒動の予言だったのだと言われています。


しかし、幕府には受け入れられず、8月27日夜、念仏信者によって松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされてしまいました(松葉ヶ谷の法難)。



 安国論寺の御小庵

安国論寺御小庵の奥に御法窟と呼ばれる岩窟があります。

日蓮は、そこで『立正安国論』を著したのだと伝えられています。


立正安国論の碑
(安国論寺)

この碑には『立正安国論』の結びの部分が刻まれています。

汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ

速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ

然レバ則チ三界ハ仏国也

仏国其レ衰ヘンヤ

十方ハ悉ク宝土也

宝土何ゾ壊レンヤ

国ニ衰微ナク土ニ破壊ナクンバ

身ハ是レ安全ニシテ心ハ是レ禅定ナラン

此ノ詞、此ノ言、信ズベク崇ムベシ


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

日蓮が辻説法をはじめてからは、四条金吾や池上宗仲などが日蓮信者となっています。

もとは建長寺蘭渓道隆の教えを受けていた者であったといいますから、日蓮の影響力はかなり大きなものとなっていたと考えられます。


 収玄寺
四条金吾邸址の碑
収玄寺

収玄寺は、四条金吾の邸跡に建てられた寺。


 池上本門寺

池上本門寺は、日蓮入滅の霊跡。






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日蓮の霊跡の夏のイベント
 龍の口竹灯籠


~龍口法難会~

 ぼたもち供養:龍口寺

 妙本寺祖師堂開帳

 ぼたもち供養:常栄寺

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 夏だ!休みだ!鎌倉だ!

夏休み江の島計画!
 夏の江ノ島


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2019年7月14日日曜日

源頼朝の長女大姫

源頼朝と北条政子の長女大姫は、まだ頼朝が伊豆の流人だった1178年(治承2年)の誕生と伝えられています。

大姫は、長女を意味するもので、本名が何だったのかは不明です。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1183年(寿永2年)、木曽義仲の長男・義高(清水冠者)が人質として鎌倉に送られてきます。

名目上は、大姫の婿ということだったようです。

義高が11歳、大姫は6歳くらいだったといいます。

📎志田義弘の反抗と木曽義仲との対立


義高によく懐いていたという大姫でしたが・・・

1184年(寿永3年)正月20日、頼朝は弟の範頼義経に命じて、義高の父木曽義仲を滅ぼし、4月になると義高も誅殺することを決めます。

義高誅殺の事は、大姫には知られないようにしていたようですが、女房らが知らせてしまったのだそうです。


 木曽義仲の墓


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~大姫、義高を逃がす~

1184年(元暦元年)4月21日の夜明け前、大姫は義高に女装をさせ、大姫の女房達が義高を囲んで屋敷から出しました。

馬は、他の場所に隠してありました。

馬蹄には真綿が巻かれ、蹄の音を人に聞かれないようにしてあったといいます。

義高の寝床には、海野小太郎幸氏が臥し、日が昇ると、双六をして義高がいるふりをしていました。

しかし・・・

晩になってばれてしまいました。

怒った頼朝は、幸氏を捕らえ、堀親家以下の者に義高を見つけ出し討ち取るよう命じます。

大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったといいます。

※海野幸氏は、義高が鎌倉に送られる際に随行してきた信濃国の武将で弓馬四天王の一人。


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~義高が誅殺される~

それから5日後の4月26日、堀親家の郎従藤内光澄が戻り、入間河原で義高を誅殺したことが報告されます。

そのことを知った大姫は嘆き悲しみ、水も喉を通らなくなりました。

北条政子も大姫の心中を察して、義高の死を嘆き悲しみ、御所中の多くの男女が悲しみにひたったといいます。


木曽塚
(常楽寺)

常楽寺裏山の木曽塚には、木曽義高の首が葬られていると伝えられています。


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~政子、藤内光澄を斬罪に処す~

その後大姫は、病床に伏し、日毎に憔悴していきました。

6月27日、政子は、大姫が病気になったのは義高を殺した藤内光澄の配慮が足りなかったとして斬罪に処したと伝えられています。


 清水八幡宮
(狭山市)

清水八幡宮は、藤内光澄に殺害された義高を祀る社。

首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、北条政子が供養をし、義高を祀る社が建てられたのだと伝えられています。


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~延命長寿祈願~

義高が誅殺されてから、大姫は床に伏す日々が続きました。


(熱海市)

逢初地蔵堂は、大姫の延命祈願のために、北条政子が建立したのだと伝えられています。


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~静の舞~

1186年(文治2年)5月27日、大姫は、病気快復祈願のため参籠していた勝長寿院で、静の舞を観ます。


 静の舞

愛する源義経との仲を引き裂かれた静御前と義高を殺された大姫。

お互いにとって、特別な存在だったのかもしれません。


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~頼朝の日向参詣~

1194年(建久5年)7月29日、大姫は危篤状態に陥ります。

八方手を尽くしたといいますが、一向によくなりませんでした。

そこで、頼朝は、「この国に2つとない効験のある薬師如来」という日向薬師の参詣を思い立ったのだといいます。

頼朝は、8月8日の早暁、日向薬師に向けて出発しています。

そして、仏に祈った後、夜になって帰ったそうです。


 日向薬師
(伊勢原市)

日向薬師は、行基によって開かれた霊山寺がそのはじまりとされ、薬師如来の霊場として信仰されてきました。


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~大姫入内問題~

1195年(建久6年)、頼朝は、妻の政子、長男の頼家、長女の大姫を伴って上洛します。

南都東大寺大仏殿落慶供養へ出席するための上洛ですが、娘大姫を後鳥羽天皇の妃にすることが真の目的だったともいわれています。

この頃の大姫は病気も小康状態を保っていたそうです。

この上洛で、丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行いますが・・・


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~大姫死去~

1197年(建久8年)7月14日、大姫がこの世を去ります。

おそらく20歳前後だったのでしょう。

遺体は、勝長寿院に葬られたものと考えられますが、不明です。


 岩船地蔵堂

岩船地蔵は、大姫の守り本尊とされる石造地蔵尊。


 姫宮塚
(常楽寺)

常楽寺木曽塚の下にある姫宮塚は、北条泰時の娘の墓といわれていますが、一説には大姫の墓だともいわれています。







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2019年7月13日土曜日

明日は天王祭(神幸祭)~江の島八坂神社・腰越小動神社~

天王祭は、小動神社の御神体だった須佐之男命の木像が津波で江の島に流され、八坂神社の祭神として祀られたという故事にもとづいて行われる行合祭(ゆきあいまつり)。

明日は神幸祭です。



八坂神社の神輿



幟には、大海士という文字が見えますが、大海士(たいかいし)とは漁師のこと。

天王祭には、小動神社から流されたスサノオノミコトの伝説が残されています。


 大海士と木臼の伝説:江の島天王祭


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小動神社の神輿


下町の神功皇后と武内宿禰、応神天皇の人形は、3年前に60年ぶりに山車に乗せられました。

今年も乗せられるようです。

📎数十年ぶりに人形を乗せた下町の山車!2016/07/10


 山車人形:小動神社天王祭

 人形山車:小動神社


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9:30出御祭

11:00海上渡御

14:00八坂神社神輿と小動神社神輿の巡幸


小動神社の神輿と江の島の八坂神社の神輿が揃って渡御する時間帯は、江ノ電の江ノ島ー稲村ヶ崎間が運休します。




 天王祭


 腰越天王祭

 江の島天王祭






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