別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2026年8月22日土曜日
桟敷の尼が住みし所~鎌倉のぼたもち寺 常栄寺~
これやこの
法難の
祖師に
はぎのもち
ささげし
あまが
すみにし
ところ
常栄寺は、1271年(文永8年)の龍ノ口法難の際に、日蓮に「ぼたもち」を捧げたという桟敷の尼が住んでいた地に建てられた寺。
そのため、「ぼたもち寺」と呼ばれています。
9月12日の龍口法難会では、ぼたもち供養が行われます。
甘縄神明神社例大祭2026~源氏ゆかりの社の祭礼~
鎌倉最古の神社といわれる甘縄神明神社の例大祭は、毎年9月7日前後から14日頃まで行われています。
2026年の日程は・・・
ぼんぼり祭
9月7日(月)~13日(日)
18:00~20:00
模擬店盆踊り
9月11日(金)・12日(土)
18:00~
(ヨーヨー 輪投げ フランクフルトなど)
万灯神輿
9月12日(土)
18:00~
神幸祭(神輿渡御)
9月13日(日)
12:00~
例大祭式典
9月14日(日)
10:00~
甘縄神明神社は、奈良時代に鎌倉に住んでいたという豪族・染屋時忠が建立したと伝えられる社。
1180年(治承4年)、石橋山の戦いに敗れて安房国へ逃れてきた源頼朝に、千葉常胤は「本拠地を鎌倉にするべきだ」と進言していますが、その理由として・・・
「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」
「鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」
「平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」
を挙げたのだとか。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2026年8月21日金曜日
御霊神社の面掛行列は鶴岡八幡宮の面行列に倣ったもの。
御霊神社の面掛行列は、例大祭の神輿渡御の一部として登場する行列。
「爺・鬼・異形・鼻長・烏天狗・翁・火吹男・福禄・阿亀・女」の面を付けた十人衆の行列が星の井通りを練り歩くものでですが・・・
この行列は、どのようにして始められたのでしょう?
よくある説明が・・・
「鶴岡八幡宮の祭礼(放生会)で行われていたもので、明治維新を迎えて放生会が廃止になったため、面とともに御霊神社に移されて定着した」
というもの。
鎌倉市観光協会のページにも
「もとは鶴岡八幡宮の神幸に出ていたもので、それが御霊神社にうつされました」
と書かれています。
本当にそうでしょうか?
1709年(宝永6年)に鶴岡八幡宮の放生会を見物した紀伊国屋文左衛門は、『鎌倉三五記』に面を付けた十人衆の紹介をしています。
そこに登場する面は、「陵王・小飛出・釣眼・大べしみ・しかみ・福禄寿・末社・うそふき・おふく・天女」。
御霊神社の面とは異なりますので、「鶴岡八幡宮から面が移された」という説はないようです。
では、御霊神社の面はいつ造られたのか?
1768年(明和5年)のようです。
ということは、「明治維新で鶴岡八幡宮の面掛行列がなくなったため、御霊神社に移された」という説もないようです。
1841年(天保12年)に編纂された『新編相模国風土記稿』には、「御霊神社の巡幸行事は鶴岡八幡宮に倣ったもの」と記されていますので・・・
「鶴岡八幡宮の面掛行列が御霊神社に移された」のではなく、「江戸時代に鶴岡八幡宮の面掛行列を真似て始められた」
ということなのでしょう。
2026年8月17日月曜日
2026年8月15日土曜日
源頼朝が鶴岡八幡宮で始めた放生会
放生会は、仏教の殺生を禁じる思想に基づくもので、魚や鳥などを山野に放ち、善根(よい報いを招くもととなる行為)を施すという仏教の儀式。
1187年(文治3年)8月15日、源頼朝は鶴岡八幡宮で放生会を催しました。
この放生会が現在の例大祭の起源とされています。
我が国の放生会は、八幡神の神託により744年(天平16年)頃に宇佐八幡宮で始められました。
863年(貞観5年)には石清水八幡宮でも放生会が執り行われるようになり、948年(天暦2年)には勅祭とされました。
頼朝は、石清水八幡宮の放生会を模した大規模な儀式を執り行い、鎌倉武家政権の正当性を誇示しようとしたのかもしれません。
放生会では流鏑馬が奉納されていますが、この時期は奥州平泉の藤原秀衡のもとに源義経が逃げ込んだことで秀衡との対立が深まっていました。
流鏑馬は、平泉の秀衡に対しての「武力誇示」と、「鎌倉に弓を引くなら即攻め込む」という強い意志を表したものだったのかも。
源頼朝が始めた流鏑馬神事と西行の教え。
1186年(文治2年)8月15日、東大寺再建のため奥州へ向かう途中の西行が鎌倉を訪れます。
『吾妻鏡』によると、源頼朝が鶴岡八幡宮を参拝すると鳥居の辺りを徘徊していたのだとか。
その後、御所に招かれた西行は、一晩に渡って弓馬の故実を語り、翌日、奥州へと旅立っていったのだそうです。
西行は、実戦的な騎射術である流鏑馬を大成させた藤原秀郷の子孫。
流鏑馬は古代から宮廷行事として行われていましたが、秀郷は実戦で勝つための戦闘技術として鍛え上げました。
頼朝は西行から秀郷流流鏑馬の秘訣を学んだということになります。
翌年、頼朝は放生会を催して流鏑馬を奉納していますが、西行の話に感銘を受けて奉納したのだとか。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
鶴岡八幡宮の流鏑馬は頼朝が武家の儀礼・訓練として新しく始めたもの。
宮廷行事としての流鏑馬は、公家風の衣装が用いて行われていましたが、秀郷流を受け継いだ「武士の流鏑馬」では、武士が山野の狩りで着る「狩装束」(かりしょうぞく)で行われました。
現在の鶴岡八幡宮で奉仕される流鏑馬は小笠原流ですが、小笠原流も頼朝によって始められた「武士の流鏑馬」の系譜を引いています。
2026年8月14日金曜日
三嶋大社の祭礼の日に挙兵した源頼朝!
伊豆の流人だった源頼朝が源氏再興の挙兵をした際の最初の相手は、伊豆国の目代(伊豆国における平家の最高責任者)だった山木兼隆ですが・・・
頼朝は山木館襲撃を源氏再興の祈願をしていた三嶋大社の祭礼の日(8月17日)と定めました。
その理由は・・・
「山木館の兵が祭礼に出かけて警備が手薄になるから」
あるいは
「祭礼の雑踏に紛れて進軍することができるため」
などと語られているようですが、本当にそうなのでしょうか?
頼朝の当初の挙兵計画は、8月17日の午前5時頃に挙兵して山木館を急襲するというものでした。
祭礼が始まる前の人々が動き出す前の時刻です。
山木館の兵も出払っていないはずですし、祭礼の雑踏などあり得ない事です。
ただ、挙兵は当初の計画通りにはいかず、午後8時頃の挙兵となりました。
結果的に祭礼の雑踏の中を進軍することになりますが、『吾妻鏡』には「三嶋社の祭礼で大勢の人がいるので、軍勢が通れば怪しまれる」と書かれています。
また、結果的に「山木館の兵も祭礼に出掛けて館が手薄になった」ようですが、当初からそうなると考えていたわけではなさそうです。
では何故、祭礼の日にしたのか?
明確な理由は語れませんが、おそらく、三嶋大社の神の力をお借りするために祭礼の日を選んだのかと。
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