鶴岡八幡宮の末社白旗神社は「武衛殿」とも呼ばれます。
掲げられている額は、幕末の島津藩の実質上の最高権力者・島津久光の筆。
なぜ「武衛殿」?
それは祭神の源頼朝が「右兵衛権佐」だったから。
「武衛」とは、天皇やその家族の近侍・護衛のための官庁「兵衛府」の唐名で、兵衛府には「左兵衛府」と「右兵衛府」がありました。
頼朝は1159年(平治元年)12月の平治の乱で一時「従五位下・右兵衛権佐」(うひょうえごんのすけ)に任じられます。
平清盛に敗れたことにより、わずか15日で解官されてしまいますが、1190年(建久元年)に「権大納言・右近衛大将」に任じられるまでは「前右兵衛権佐」であったことから御家人からは「佐殿」(すけどの)と呼ばれていました。
なぜ、島津久光が「武衛殿」の額を書いたのか?
それは、古くから島津家の初代当主の島津忠久が頼朝の御落胤という系図が伝えられてきたから。
島津家は頼朝の子孫を強調し、江戸時代には二十五代当主の重豪が頼朝の墓塔(源頼朝墓)を建てています。
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