別冊『鎌倉手帳』

okadoのブログは、『鎌倉手帳』(寺社散策・観光)の別冊。
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2018年10月17日水曜日

歩く鎌倉:寺社と景色と歴史と。

『鎌倉手帳』別冊
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 鎌倉:寺社・史跡巡り


~源頼朝と源義経を巡る~

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源義経の六条堀川館を襲撃した土佐坊昌俊

1185年(元暦2年)5月、平家を壇ノ浦に滅ぼした源義経は、捕らえた平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとしますが・・・

兄の源頼朝は、それを許しませんでした。

その理由には・・・

頼朝に無断で任官されたことや、戦での独断専横的な行動が挙げられます。

歴史物語などでは、梶原景時頼朝に讒言したことが大きな原因として取り上げられることが多いようですが・・・

どうもそれだけではなく、かなり多くの御家人が義経の自分勝手な行動に恨みを抱いていたようです。

一緒に戦った兄範頼も九州の管理を義経に横取りされているようですので。


 満福寺
(鎌倉市腰越)

義経は腰越の満福寺に留まって、大江広元を通じて頼朝に弁明するための「腰越状」を書きます。

しかし、頼朝から許されることはなく、再び宗盛の護送を命ぜられて京へ帰ることとなりました(1185年(元暦2年6月9日)。

『吾妻鏡』は、その時の義経の気持ちを「その恨みすでに古(いにしえ)の恨みよりも深し」と記しています。

そして、鎌倉を発つに当たっては、「関東(頼朝)において怨みを成すの輩は義経に属すべき」と吐いたと伝えています。


 満福寺襖絵

満福寺では、「腰越状」の下書きと伝わるものや、義経の物語を描いた襖絵を見ることができます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

京に帰った義経は、叔父行家と接近するようになります。

行家といえば伊豆配流中の頼朝のもとに以仁王の令旨を届けた人物として知られていますが・・・

頼朝義経の兄弟義円を討死にさせ、木曽義仲と頼朝との関係を悪化させるなど、なかなかの問題人物です。

京で不穏な動きが漂いはじめると、9月2日、頼朝梶原景季を京に派遣し義経の動向を探らせています。

景季は京に到着するとすぐに義経を尋ねますが、病気を理由に対面することはできなかったといいます。

対面できたのは、二日後のことで、かなり憔悴しきった様に景季には見えたようです。

しかし、鎌倉の頼朝は、これを仮病と判断し、義経を討つことを決意します。

そして、10月9日、土佐坊昌俊を刺客として京に送り込むことが決定されました。

『吾妻鏡』によれば、義経追討について多くの御家人が辞退する中、土佐坊昌俊は自らがその役を買って出たのだといいます。


 土佐坊昌俊邸跡碑
(鎌倉市・小町大路)


同日、出発の準備を整えた昌俊は、頼朝に挨拶をした後、83騎を率いて京へ向かいました。

そのとき昌俊は、下野国にいる年老いた母と幼い子のことを頼朝に頼んだといいます。

そして、10月17日、60数騎の軍勢で義経六条堀川館を襲撃しました。

『吾妻鏡」によれば、このとき義経の家人の多くが外出中で、邸は閑散としていたそうです。

義経は佐藤忠信らを引き連れて自ら邸の門を開き攻撃してきたといいます。

そのうち、騒ぎを聞きつけた行家らの軍勢も駆けつけ後方から昌俊を攻めたため、挟み撃ちとなってしまった昌俊は、退散せざるを得なくなりました。

鞍馬山に逃げ込んだ昌俊は、捕らえられ、10月26日、六条河原で斬首されます。

一方の義経は、昌俊の襲撃を受けた後、直ちに後白河法皇の仙洞御所に赴き事の次第を報告しています。そして、翌10月18日には、頼朝追討の宣旨を受けています。


 六条堀川館址
(京都:六条堀川館址)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『吾妻鏡』の記述からすると、この義経襲撃は、その決行の日が進発の日(10月9日)から9日後と決められていたようです。

その間の10月13日、義経は後白河法皇に頼朝追討の宣旨の勅許を求めているといいます。

この流れからすると、「義経は予め襲撃を察知していて、待ちかまえていた可能性が高い」という学説もあるようです。

さらに、この襲撃は、義経の暗殺を主目的としたものではなく、義経を徴発するための頼朝の作戦だったという見解もあるようです。

昌俊自身も「年老いた母と幼い子」のことを頼朝に頼んでいるようですし、襲撃の前から「下野国中泉庄」を賜っています。

昌俊は、頼朝義経を討伐するための口実を作るために、そして、自身は死ぬために鎌倉を発っていったのかもしれません。

『義経記』では、義経は捕らえた昌俊を鎌倉へ返そうとしますが、昌俊は死を願い出て、駿河清重に討たれたのだと伝えられています。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

土佐坊昌俊は、頼朝の父義朝に最後まで従っていた渋谷金王丸であるという説もあるようです。

10月24日には、義朝の菩提寺勝長寿院の供養も行われていますので、昌俊と頼朝との間では、歴史では伝えられていない思いがあったのかもしれません。


(愛知県美浜町)

源義朝最期の地にある湯殿跡

義朝は、湯浴みをすすめられ、垢すりをしていた金王丸が湯殿から出て行った隙に、三人の者に押さえつけられ殺害されたのだといいます。


 綾瀬市・長泉寺
(神奈川県綾瀬市)

長泉寺背後の山は、「金王丸の山」と呼ばれ、渋谷金王丸が葬られた山という言い伝えがあります。


 金王八幡宮
(東京都渋谷区)

金王八幡宮は、金王丸の祖父河崎基家が創建した神社。

当初は渋谷八幡宮と呼ばれていたそうですが、金王丸の名声によって金王八幡宮と改められたのだといいます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 冠者殿社

冠者殿社八坂神社の境外末社。

誓文払いの神として信仰されてきました。

そして、土佐坊昌俊も祀られているのだとか。

熊野詣を装って上洛した土佐坊ですが、事前に察知されて捕まってしまいます。

義経に詰問された土佐坊は、襲撃の意思のないことの誓文を書きました。

しかし、その晩のうちに誓いを破り、義経を襲撃します。

結果は失敗。

土佐坊は処刑されるのですが、忠義のために偽りの誓文を立てたことを悔い、その罪の救済を願ったのだそうです。

そのため、土佐坊も誓文払いの神として祀られているのだそうです。






☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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2018年10月14日日曜日

横須賀:浄楽寺で運慶の諸仏が公開されます!

 木造阿弥陀三尊像

 木造不動明王・毘沙門天立像

浄楽寺の「木造阿弥陀如来及両脇侍像」、「木造不動明王・毘沙門天立像」は、胎内の銘札から義盛の発願で運慶が造立したものと判明しています。

「木造阿弥陀如来及両脇侍像」、「木造不動明王・毘沙門天立像」は本堂裏の収蔵庫に保管され、3月3日と10月19日に公開されています。

公開時間は10:00~15:00。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~奈良仏師運慶~


運慶は奈良の興福寺を拠点に活躍した仏師。


興福寺南円堂の本尊:不空羂索観音菩薩像・北円堂の本尊:木造弥勒菩薩坐像、木造無著・世親菩薩立像は運慶の作。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆


東大寺南大門の金剛力士像は、その代表作として知られています。

 東大寺の金剛力士像

阿形像は大仏師運慶と快慶が小仏師13人を率いて造立し、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人を率いて造立したもの。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆


神奈川県では、浄楽寺の諸仏の他、横浜市金沢区・称名寺大威徳明王像が運慶作と判明しています。

 大威徳明王

最晩年の運慶の貴重な仏像。発願者は、源実朝の養育係だった大弐局。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆


静岡県伊豆の国市の願成就院は、北条時政源頼朝奥州討伐の戦勝を祈願して建立した寺院。


本尊阿弥陀如来坐像・不動明王と二童子像(矜羯羅童子・制咤迦童子)・毘沙門天像は、時政の発願により運慶が造立したことが確認されています。

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 浄楽寺

浄楽寺和田義盛の建立と伝えられる寺。

「JR逗子駅」から長井方面行きバス・「浄楽寺」下車すぐ。






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2018年10月12日金曜日

お十夜の念仏は比叡山から真如堂、そして光明寺へと伝えられました。

 光明寺のお十夜

十夜の念仏会は、平安時代に慈覚大師円仁が唐の清涼山から比叡山に伝えたものといわれ、室町時代になって後花園天皇が京都東山の真如堂に伝えました。

そして、享徳年間(1452年~55年)、伊勢貞国が真如堂に籠もって、10月6日から15日までの10日間にわたって勤行したのが、現在の「十夜法要」のはじまりと伝えられています。


 延暦寺にない堂
(延暦寺西塔)

お十夜の引声念仏は、曲節をつけて声を引き伸ばして唱えるもの。

慈覚大師円仁が中国唐から比叡山に伝えたのだとされています。

延暦寺西塔にない堂は常行堂(左)と法華堂(右)が廊下で繋がった建物。

慈覚大師円仁は、常行堂で引声念仏を行ったのだといいます。


(京都)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~伊勢貞国~

伊勢貞国は室町幕府の政所執事を務めた人物。

戦国時代の幕を開けた北条早雲は外孫です。

※早雲の出自については様々な説があるようですが、伊勢盛定の子・盛時というのが定説となっているようです。


~真如堂に籠った伊勢貞国~

この世の無常を感じた伊勢貞国。

若い頃から阿弥陀如来を信仰していた貞国は、三日三晩、真如堂に参籠して、満願の暁には出家することを考えていました。

すると・・・

貞国の夢に僧が現れて告げます。

「阿弥陀を信じるのなら出家するのは三日待て」

そして、その三日後。

足利義教に仕えていた兄貞経が失脚させられて吉野に謹慎。

貞国があとを継ぐことになりました。

夢告がなかったら、自分は出家してしまい、兄の跡を継ぐどころか家が絶えてしまうところでした。

阿弥陀さまに感謝した貞国は、七日七晩重ねて参籠したのだといいます。

合わせて十日十晩の参籠となります。

これが「お十夜」の始まりだと伝えられています。


「心だにたてし誓ひにかなひなば世のいとなみはとにもかくにも」

貞国の夢枕に現れた僧が残した歌なのだといいます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~光明寺のお十夜~

 光明寺のお十夜

光明寺お十夜は、1495年(明応4年)、第九世観誉祐崇が後土御門天皇の勅命で清涼殿において「引声阿弥陀経」・「引声念仏」による法要を勤修したことで勅許されました。

※光明寺のお十夜は10月12日~15日。

※真如堂のお十夜は11月5日~15日。


 光明寺のお十夜
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 光明寺






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