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5月 17, 2020の投稿を表示しています

左手に鬘が握られている地蔵菩薩~京都:六波羅蜜寺~

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六波羅蜜寺 の地蔵菩薩立像は、定朝作と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。 左手に毛髪を握っているため「鬘掛地蔵」と呼ばれています。 伝説によると・・・ 地蔵菩薩を信心していた貧しい女が母の葬儀も出せないでいると、見知らぬ僧が現れ、ねんごろに回向し、墓に葬ってくれました。 貧しい女は、お布施のかわりに母の鬘を渡したのだそうです。 忌が明けて地蔵菩薩を参拝すると、左手にはあの時の僧に渡した鬘が握られていたのだとか。 六波羅蜜寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

源頼朝のお鬢水~白糸の滝~

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お鬢水 源頼朝 が鏡の代わりにしたという富士の湧き水。 この湧き水の水面に顔を映して鬢のほつれを直したという言い伝えから 「お鬢水」 と呼ばれています。 湧き出した水は 白糸の滝 の左端から流れ落ちています。 白糸の滝 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝も感動した白糸の滝~世界文化遺産富士山~

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白糸の滝 は、 世界文化遺産「富士山」 の構成資産。   1193年(建久4年)、 富士裾野の巻狩り を催した 源頼朝 は、 白糸の滝 をこう詠んだのだといいます。 この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 白糸の滝 https://www.yoritomo-japan.com/fuji/siraito-taki.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

悪疫退散を祈る空也上人~京都:六波羅蜜寺~

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空也は、念仏を唱えながら諸国を行脚し、橋を架け、井戸を掘るなどの社会事業を行った僧。 六波羅蜜寺 に伝わる「空也上人立像」は、疫病が蔓延していた京の街中を鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを表現したもので、 運慶 の四男康勝の作(重要文化財)。 念仏を唱える空也の口から吐き出された六体の阿弥陀は、「南無阿弥陀仏」の六文字を表現しているのだとか。 六波羅蜜寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

北条一族初七日の追善供養~元弘三年銘の五輪塔地輪~

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元弘三年銘の五輪塔地輪 (釈迦堂ヶ谷奥やぐら群出土) 1333年(元弘3年)5月22日、 新田義貞 が鎌倉攻めに入ったことで、 北条高時 以下の一族は、 東勝寺 に籠もって自刃しました。 これによって鎌倉幕府が滅亡します。 釈迦堂ヶ谷奥やぐら群からは、5月28日の日付が刻まれた五輪塔の地輪が発見されていますが、その日付が北条一族自刃の日から数えて初七日にあたることから、北条一族追善のための五輪塔であったと考えられているようです。 小町大路 を歩いているとこんな標識があります。 北条高時腹切やぐら、東勝寺跡。 北条一族870余名が自刃したと伝えられている所です。 腹切やぐら 北条高時 が葬られたとも伝えられているやぐらです。 ただ、出土した地輪から考えれば、高時をはじめとする北条一族は釈迦堂ヶ谷の奥に葬られたのでしょう。 残念ながら、昭和40年の宅地造成によって、やぐら群のほとんどが破壊されてしまったようですが・・・ 元弘三年銘の五輪塔地輪は、 鎌倉歴史文化交流館 で見ることができます。 鎌倉歴史文化交流館 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura-museum.html ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平安京の朱雀大路を模して造営された鶴岡八幡宮の参道

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1180年(治承4年)10月、源氏再興の挙兵を果たし鎌倉に入った 源頼朝 は、先祖・ 源頼義 が創建した 由比若宮 を現在地に遷し、鎌倉の街づくりの中心に据えました。 それが 鶴岡八幡宮 。 鶴岡八幡宮 参道の 若宮大路 は、1182年(養和2年)、 北条政子 の安産祈願のために造営された鎌倉のメインストリート。 由比ヶ浜 まで一直線に延びる道は京の朱雀大路を模したものといわれ、中央の一段高い 段葛 も同時期に造営されたものと考えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~平安京の朱雀大路~ 朱雀門跡 朱雀大路は平安京のメインストリート。 大内裏の正門・ 朱雀門 から平安京の正門・ 羅城門 まで延びる一直線の道。 その幅は85メートルもあり、両側には柳が植えられていたのだといいます。 頼朝 が京にいたころの朱雀大路がどのような状況だったのかは分かりませんが・・・ 羅城門跡 羅城門の模型 東寺 羅城門 の東西には王城鎮護のための 東寺 と 西寺 が配されていました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鶴岡八幡宮の参道~ 若宮大路 (鶴岡八幡宮楼門前から) 頼朝 は 鶴岡八幡宮 を内裏に見立て、 若宮大路 を造営したのだといいます。 一の鳥居 若宮大路 は由比ヶ浜の 一の鳥居 から続く道。 造営当初は 段葛 も一の鳥居から続いていたといわれています。 二の鳥居 段葛 二の鳥居 から 三の鳥居 まで 段葛 が続きます。 遠近法が用いられ 鶴岡八幡宮 に近づくほど道幅が狭くなります。 鶴岡八幡宮を遠くに見せるための仕掛け。 3枚上の写真でも分かるかと思いますが、鶴岡八幡宮から見た場合には一直線の道がはっきりと見えるようになっているようです。 三の鳥居 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!