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10月 23, 2011の投稿を表示しています

無患子(むくろじ)・・・葛原岡神社

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葛原岡神社 にある無患子の木。 無患子 (むくろじ)・・・ラテン語のSapindus(サピンダス)は、石鹸を意味します。 そのとおり、無患子の果皮は泡立ちます。 昔は無患子の果皮を使って洗濯や体を洗ったそうです。 そして、種子は、羽子板の羽に使われました。 葛原岡神社 の無患子の木 葛原岡神社 では、無患子の種子をお守りとして授与しています。 「患いを無くす」 ということで、「無病息災」と「厄除け」に効能があるそうです。 葛原岡神社 https://www.yoritomo-japan.com/page137kuzuharaoka.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

浄智寺の八重シュウメイギク2011/10/29

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北鎌倉 浄智寺 の シュウメイギク 。 客殿前の庭園の景色です。 鎌倉のシュウメイギク http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/shumeigiku.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

東慶寺のリンドウ2011/10/29

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北鎌倉 東慶寺 のリンドウです。 山門への石段から此処所処に リンドウ の花が咲いています。 鎌倉のリンドウ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/rindo.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

北方の王者藤原秀衡の死

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1187年(文治3年)10月29日、北方の王者 藤原秀衡 が亡くなりました。 秀衡は、奥州藤原氏の三代当主。 毛越寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源義経の庇護と源頼朝への対抗~ 奥州 藤原秀衡 といえば・・・ 兄 源頼朝 に追われ、逃亡を続けていた 源義経 を庇護したことで知られています。 義経 が、いつ、どのような経路で奥州に下ったのかは定かではありませんが、1187年(文治3年)の春ごろ、雪解けを待って北陸路から奥州へ下ったものと考えられています。 一方、鎌倉の 頼朝 が、 「義経が秀衡に匿われている」 と確信したのは、その年の秋になってからのことのようです。 『吾妻鏡』の9月4日条によれば、 頼朝 が朝廷に 「秀衡が関東に反逆しようとしていること」 の申し入れをし、秀衡に対して 「院庁下文」 が出されたことが記されています。 頼朝 は院庁からの使いと一緒に鎌倉からも雑役を派遣しています。 秀衡 の回答は、 「背くつもりはない」 との内容のようでしたが、雑役の報告では「反逆の準備を進めている」というものだったといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~北方王者の最期~ 1187年(文治3年)10月、 秀衡 は病魔におかされます。 臨終にのぞんだ秀衡は、長男国衡と次男泰衡に対して、 「源義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」 と遺言します。 後継者は次男の泰衡(正室の子)とし、長男国衡(側室の子)には、秀衡の正室を娶らせ、互いに異心をもたない旨の起請文を書かせました。 義経 にも起請文を書かせたといいます。 そして、10月29日、王国の行く末を心配しながら 平泉の館 で息をひきとりました。 遺体は 中尊寺 の 金色堂 須弥壇の下に納められ、現在でもミイラとして残されています。 もしかすると秀衡には・・・ 自分の死によって、栄華をほこった北方王国の瓦解が予測できていたのかもしれません。 平泉館跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~奥州藤原氏の滅亡~ 頼朝 にとって 秀衡 の死は、奥州藤原氏を滅ぼす絶好の機会となりました。 義経 逮捕を口実に奥州を攻める時期が到来したわけです。 頼朝 は跡を継いだ泰衡を再三にわたって誘惑します。これに屈した泰

山内荘と北鎌倉の禅寺

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北鎌倉の山ノ内には、 建長寺 ・ 円覚寺 をはじめとする北条氏ゆかりの禅寺が並んでいます。 現在の鎌倉山ノ内から横浜市栄区・戸塚区にかけては、「山内荘」と呼ばれた荘園で、 源頼朝 が鎌倉入りした当時は、 山内首藤経俊 の所領でした。 しかし、経俊は頼朝が挙兵したときに平家方についたため、1180年(治承4年)10月23日、山内荘を没収され、身柄は 土肥実平 に預けられます。 このとき、山内荘の支配も 実平 に預けられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 明月院 明月院 は、山内経俊が 平治の乱 で死んだ父俊道の菩提を弔うために建てた「明月庵」を起源としているといいます。 境内にある 「明月院やぐら」 は、上杉憲方の墓といわれていますが、山内経俊が造った「やぐら」であるともいわれています。 明月院やぐら 1213年(建保元年)、 和田義盛 が 北条義時 に対して挙兵します( 和田合戦 )。 このとき、山内荘は、 土肥実平 の孫惟平が地頭職を務めていました。 しかし、惟平は 和田義盛 についたため処刑されてしまいます。 山内荘は 北条義時 に預けられました。 以後、 北条得宗家 の所領として管理され、 北条時頼 以降、 建長寺 をはじめとする禅刹が建立されていきます。 建長寺 建長寺 は、 北条時頼 によって創建された臨済宗建長寺派の大本山。 鎌倉五山 第一位。 鎌倉への玄関口 巨福呂坂 の入口に建てられ、日本初の「禅専門道場」として栄えました。 円応寺 長寿寺    圓應寺 と 長寿寺 は 建長寺の塔頭 です。 北条時頼廟 北条時頼 は明月谷に最明寺を建てます。 最明寺は 時頼 の死後廃寺となりますが、子の 北条時宗 が禅興寺として再興しました。 禅興寺の支院の一つが「紫陽花寺」として知られる 明月院 です。 明月院 には、北条時頼廟と時頼の墓とされる宝篋印塔があります。 浄智寺 浄智寺 は、 北条時頼 の三男宗政の菩提を弔うために建立された 鎌倉五山 第四位の寺です。 円覚寺 円覚寺 は、 元寇 による戦死者を弔うために 北条時宗 が創建した臨済宗円覚寺派の大本山。 鎌倉五山 第二位。

佐竹征伐

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1180年(治承4年)10月20日、 富士川の戦い で勝利した 源頼朝 は、27日には佐竹征伐のため常陸国へ出発します。 このとき、 「27日は 頼朝 の哀日(生年・干支などから忌み慎むべき凶日)」 であることから、多くの御家人が出発を反対したといいます。 これに対して 頼朝 は、 「4月27日に以仁王の令旨を受け取り、東国を掌握できた」 として佐竹征伐を敢行しました。 11月4日、常陸国府に到着した 頼朝 は、まず、佐竹義政の縁戚である 上総広常 に命じて、義政を誘き出して謀殺し、金砂城に籠もる佐竹秀義を攻めます。 しかし、金砂城は、山の頂に築かれた城で、頼朝軍は麓の渓谷を進みますが、城からの矢や石が軍兵に当たり、こちらからの射る矢は山頂にまでとどかず、苦戦を強いられました。 翌5日、 土肥実平 ・土屋宗遠らは 頼朝 に使者をよこし、 「この城は人の力で破ることは難しい要塞で、その中に籠もる兵も一騎当千の強者」 であることを知らせてきました。 これを聞いた 頼朝 は軍議を開きます。 その席で、 上総広常 は、 「佐竹秀義の叔父義季は、行賞を約束すれば秀義を討つ策略に加わることでしょう」 と進言したといいます。そして 頼朝 はこの策を採用します。 広常 が義季のところに赴き、 頼朝 に味方することを説くと義季はすぐになびき、義季の手引きによって城の背後に回った広常軍が雄叫びをあげます。 予期していなかった出来事に城内は混乱し、ついに金砂城は落ち、秀義は逃亡しました。 ※逃亡した佐竹秀義は、のちに行われる奥州征伐に従軍が許され、先祖 新羅三郎義光 ゆかりの地に屋敷を構えています。 大寶寺 大寶寺 は佐竹氏の屋敷跡に建立された寺です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 岩瀬与一太郎という男 この戦いで捕らえられた者の中に岩瀬与一太郎という男がいます。 この男、 頼朝 に 「同族を滅ぼすなんてとんでもないこと。国の敵に向かう時は天下の勇士は力を合わせて向かうべき」 と抗議したといいます。 上総広常 が 「早急に処刑すべき」 と進言しますが、 頼朝 はこの男を許し御家人に列したといいます。 五社稲荷神社 岩瀬の鎮守 五社稲荷神社 は、岩瀬与一太