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松葉ヶ谷法難・・・鎌倉:妙法寺

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「松葉ヶ谷法難」とは、 日蓮 の四大法難の一つです。 1254年(建長6年)、鎌倉に入った 日蓮 は、松葉ヶ谷に草庵を構えたといいます。 その場所が何処なのか特定されてはいませんが、大町の 妙法寺 がある場所もその一つとされています。 日蓮の辻説法跡 鎌倉に入った 日蓮 は、 小町大路 を中心に布教活動を行いました。 弟子には、のちに日蓮六老僧といわれる日昭と日朗がいました。 https://www.yoritomo-japan.com/page043tujiseppo.htm 1260年(文応元年)7月16日、 日蓮 は松葉ヶ谷の草庵で書き上げた『立正安国論』を 北条時頼 に提出します。 その冒頭には、 「天変、地妖、飢饉、疫病あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷にたおれ、骸骨路に充てり、死を招くの輩既に大半をこえ、これを悲しまざるの族敢えて一人もなし」 と書かれ、 このような事が起こるのは法華経を信じないからだとし、 人々を惑わす法然の念仏宗などを禁じなければ、外国からの侵略や内乱が起こると予言したもので、幕府に対して、法華経を正法とするよう促すものでした。 立正安国論~鎌倉と日蓮 北条時頼への挑戦状・・・日蓮の立正安国論 光則寺 日蓮 は、宿谷光則を通じて『立正安国論』を提出したといいます。 のちに光則は、 日蓮 に帰依し、自邸を寺としました。 https://www.yoritomo-japan.com/page136kosokuji.htm しかし、これが原因となって、8月27日夜、草庵が念仏信者らによる焼き討ちに遭ったといいます(松葉ヶ谷法難)。 襲撃を企てた者の中には、北条重時、六代執権北条長時、 極楽寺 の忍性、 光明寺 の然阿良忠、 建長寺 の蘭渓道隆もいたといいます。 妙法寺 日蓮 の草庵跡の一つとされる大町の 妙法寺 。 草庵の焼き討ちに遭った 日蓮 は、どこからともなく現れた白猿に導かれ、 「お猿畠」 に避難したといいます。 そのとき、白猿が 日蓮 に 「お猿畠」 の生姜を捧げたという伝説から、 妙法寺 では 「厄除け生姜供養」 が行われてきました。 9月12日の 龍口法難会 のときに行われるそうです。

妙本寺二天門の修繕工事終了

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妙本寺 の 二天門 の修繕工事がほぼ終了したようです。 白龍の彫刻や持国天像・毘沙門天像は、まだビニールに包まれていましたが・・・ ノウゼンカズラ がまだ少し咲いています。 妙本寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043myohonji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

梶原景時と石橋山の戦い~源頼朝を助けた武将~

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鎌倉幕府で 源頼朝 の信任を得た梶原景時は、 石橋山の戦い では大庭景親の軍に属していました。 梶原氏 は、 大庭氏 と同じく 鎌倉権五郎景政 を祖としていると伝えられ、梶原景時と大庭景親は従兄弟ではないかともいわれています(参考: 御霊神社 (坂ノ下))。 御霊神社 (鎌倉:梶原) 鎌倉権五郎景政 を祭神とする梶原の鎮守。 「梶原」という地は、梶原景時に縁のある所といわれ、 御霊神社 には景時の像も安置されていたといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)、 源頼朝 は、 石橋山の戦い で惨敗し、土肥の椙山に身を隠します。 大庭景親 は、 頼朝 を追跡しますが、追跡軍の中には 梶原景時 もいたといいます。 『吾妻鏡』によれば・・・ 景時 は、頼朝の所在を知りながら「この山には人はいない」といって、 景親 の手を引いて去っていったといいます。 また、別の物語では・・・ 大木の洞窟に隠れていた 頼朝 を発見しながら、「ここには誰もいない。蜘蛛の巣ばかりだ」といって「弓の先についた蜘蛛の巣を見せた」とも伝えられています。 しとどの窟 (頼朝が隠れ潜んだという岩窟) いずれにしても、 景時 が 頼朝 の信頼を得たのは、「椙山で頼朝を助けた」ことが大きく影響しているということなのでしょうか??? 石橋山の戦い 後、 景時 が何処で何をしていたのかはわかりませんが・・・ 『吾妻鏡』によると・・・ 景時 は、この年の12月に 土肥実平 を頼り、翌年正月11日には、 頼朝 に面会して気に入られたといいます。 つまり、この時から 頼朝 の御家人となったということです。 のちに、侍所の所司(次官)にも任命されています。 梶原景時邸跡 鎌倉での 景時 の館は、十二所にあったといいます。 一宮館址 (寒川町) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵 源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃 源頼朝挙兵の日 源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・~ 三浦一族の進発~石橋山の戦い~ 源頼朝の敗戦~石橋山の戦い~ 源頼朝を助けた武将たち~石橋山の戦い~ 源頼朝・・・真鶴から安房へ 先陣を切って討死した佐奈田与一義

源頼家重病・・・家督相続の沙汰

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1203年(建仁3年)8月27日、病床にあった二代将軍 源頼家 の容態が悪化したため、以下の譲与が発表されます。 関西38ヶ国の地頭職を弟の千幡 (のちの実朝) 関東28ヶ国の地頭職と総守護職を長子一幡 源頼家 源実朝 『吾妻鏡』によれば・・・ 頼家 は、7月20日に急病になったといいます。 23日には、病状が重いため祈祷も行われていますが、占いによると「霊神の祟り」ということだったようです。 以後、度々 頼家 の容態が思わしくないことが記され、この日の沙汰となっています。 この沙汰に対して激怒したのが、一幡の外祖父で、 頼家 の乳母夫を務めた 比企能員 です。 (※一幡の母は、能員の娘若狭局です。) 源頼朝 の乳母を務めた比企尼の養子で、 頼朝 からの信任も厚かった 能員 は、将軍家外戚として権勢をふるっていました。 『吾妻鏡』の9月2日条によれば・・・ 能員は、娘若狭局を通じて病床の 頼家 に次のように伝えます。 「地頭職を弟の千幡にも譲るということは、権威が二つに分かれ、権力争いになることは疑いのないこと。 子(一幡)と弟(千幡)のことを考え、おだやかに計らったようだが、かえって国の乱れの基となる。 しかも、一幡の家督は、北条時政に奪われてしまうだろうから、時政を追討すべきだ」 これに驚いた 頼家 は、能員を病床に招いて、 北条時政 追討の許可を与えました。 しかし、この密談を 北条政子 が障子の陰から聞いていて、 時政 に通報します。 能員の企てを知った 時政 は先手を討って、 能員 を自邸に招きだし暗殺しました。 そして、比企討伐が行われ、比企一族は、一幡の小御所に立て籠もって防戦しますが、やがて屋敷に火をかけ、一幡を囲んで自害したそうです( 比企氏の乱 )。 一幡の袖塚 (妙本寺) その後、 頼家 は・・・ 伊豆 修禅寺 に幽閉され、翌年暗殺されています。 源頼家の墓 (伊豆市) 参考: 源頼家の悲劇~比企氏の乱の真相は・・・~ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝・・・真鶴から安房へ

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『吾妻鏡』によれば・・・ 石橋山 で大敗した 源頼朝 は、土肥の椙山に逃れた後、 箱根権現 の行実と永実を頼ります。 しかし、行実と永実の弟智藏房良暹が、兄たちを裏切り、僧兵を集めて 頼朝 を襲おうとしていることがわかりました。 良暹という男、 頼朝 がまず血祭りに上げた 山木兼隆 の祈祷師をしていたといいます。 行実は・・・ 「良暹を恐れることはないが、大庭景親がこれを聞きつけ、攻めてきたらいけないので、逃げた方がいい」 と進言します。 頼朝 は、 土肥実平 らとともに土肥郷へ逃げました。 このとき、 北条時政 は、事の次第を他の源氏に伝えるため、甲斐国へ向かいますが・・・ 今後、 頼朝 が何処へ落ち着くのかを見定めないと、他の源氏に知らせてもどうにもならないと考え、 頼朝 を追って土肥郷へ向かったそうです。 城願寺 土肥郷は現在の湯河原町。 土肥実平 の居館があった所で、 城願寺 は 実平 の菩提寺です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ そして、1180年(治承4年)8月28日、 頼朝 は、真鶴から海路安房へと舟出します。 舟は、 土肥実平 の命で、土肥の住人貞恒が用意しました。 この前日には、 北条時政 ・ 北条義時 ・ 岡崎義実 らも安房へ向けて出航しています。 そして、8月29日、 頼朝 は 土肥実平 とともに安房国の平北群猟島に舟を着け、先に到着していた 北条時政 らが迎えています。 真鶴町の岩海岸 源頼朝 が安房に向けて舟出した浜と伝わっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ しかし、 石橋山の戦い の敗北から 頼朝 の舟出までの間には、 三浦義明 の 衣笠城 が 畠山重忠 ・河越重頼・江戸重長によって攻められ、 義明 が討死しました( 衣笠合戦 )。 (※子の 義澄 ら 三浦一族 は城を逃れ、海路安房へと向かい頼朝と合流しています。) 三浦義明の墓 横須賀市の 満昌寺 にある 義明 の墓です。 満昌寺 は、 頼朝 が 義明 の追善のために建立した寺です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~参考~ 佐々木四兄弟は、 石橋山の戦い 後、 頼朝 の弟 阿野全成 に出会っています。 そして、 全成 は、佐々木四兄弟と一緒に 渋谷重

明暗が分かれた大庭兄弟(景義と景親)~石橋山の戦い~

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石橋山の戦い で 源頼朝 を破った 大庭景親 は、 鎌倉権五郎景政 を祖とし、景政が開発した 「大庭御厨」 の経営を行っていた豪族です。 大庭城址 (藤沢市大庭) 大庭景親の居城だったと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ そもそも、「鎌倉氏」は、平良文を祖とする板東八平氏の一つといわれ、 源頼義 が平直方から鎌倉の地を譲り受けてからは、源氏に仕えてきました。 村岡御霊神社 (藤沢市宮前) 板東八平氏の祖平良文が勧請したと伝えられる神社です。 良文の館がこの辺りにあったとされ、子孫の 鎌倉権五郎景政 も住んでいたといわれています。 のちに、景政の父景成が鎌倉に館を構えたことにより、「鎌倉氏」を名乗るようになったといわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉権五郎景政 が、 源義家 に従った後三年の役で、右目を矢に討たれながらも奮戦したという伝説は知られているところです。 御霊神社 (鎌倉:坂ノ下) 鎌倉権五郎景政 を祭神とし、景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「鎌倉氏」の一族である 大庭氏 も 源義朝 に仕え、保元の乱で活躍しています。 特に、 大庭景義 (景親の兄)は、源為朝の矢を足に受け重傷を負っています。 必中必殺の為朝の矢を受けて生き残ったのは景義一人ともいわれています。 (参考: 六角ノ井 ) 大庭景義像 ( 神明大神宮 ) 景義は、 大庭御厨 の懐島郷(茅ヶ崎市)に館を構えました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)、 源頼朝 が挙兵します。 大庭兄弟 にとって、 頼朝 につくのか、清盛(平家)につくのかは重要な問題となりました。 しかし、兄弟の意見は分かれます。 「代々、源氏に仕えてきたからには、頼朝に味方する」 というのが兄 景義 でした。 一方の弟 景親 は、 「平家の厚恩に報いるため、やはり平家につく」 というものだったといいます。 こうして、 石橋山の戦い は、兄弟が敵味方となって戦うことになります。 兄弟には、どちらか一方に馳せ参じるのではなく、両方の軍に分かれて、「いずれが勝利しても生き残ろう」という考えもあった