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10月 25, 2015の投稿を表示しています

宝物風入が始まります・・・鎌倉:建長寺・円覚寺

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明日から建長寺と円覚寺の 宝物風入 。 普段観ることのできない多くの宝物が展示されます。 期間:11月1日~3日 時間:9:00~16:00(最終日は15:30まで) 入山料300円(小中学生100円) 宝物拝観料500円(小中学生300円) 建長寺   https://www.yoritomo-japan.com/page138kentyoji.htm 円覚寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138engakuji.htm

源頼朝の橋供養と落馬の伝説・・・茅ヶ崎

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1198年(建久9年)12月27日、 源頼朝 は相模川に架けられた橋の供養に出かけました。 この橋は、 稲毛重成 が亡き妻の供養のために架けた橋。 頼朝が渡り初めをしたそうです。 旧相模川橋脚 (茅ヶ崎市) 国指定史跡 「旧相模川橋脚」 は、1923年(大正12年)の関東大震災で浮き上がってきたもので、頼朝が渡り初めをした橋のものと考えられています。 ※現在設置されているのはレプリカ。 弁慶塚 (茅ヶ崎市) 無事に橋供養を終えた 頼朝 でしたが、その帰り、 鶴嶺八幡宮 の前にさしかかると、 源義経 や源行家の亡霊が現れたのだといいます。 馬は棒立ちとなり頼朝は落馬。 その怪我が原因で翌年亡くなったのだと伝えられています。 鶴嶺八幡宮参道(大鳥居の傍ら)には、のちに里人が義経一族の霊を鎮めるために建てたというという 弁慶塚 があります。 龍前院の五輪塔 (茅ヶ崎市) 鶴嶺八幡宮 の裏手にある 龍前院 には10基の五輪塔が並んでいます。 頼朝の警護をしていた者10名の墓だともいわれています。 この10名は頼朝の落馬の責任をとって自刃したのだとか。 源頼朝墓 (鎌倉市) 鎌倉に武家の都を築いた 源頼朝 は、1199年(建久10年)正月13日に亡くなります。 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』は、頼朝が亡くなる前の記事が欠落しているため詳しい事はわかりませんが、1212年(建暦2年)2月28日条には、「橋供養の帰りに落馬し、程なく亡くなった」ことが記録されています。 ただ、どこで落馬したのか、何が原因だったのかは定かではありません。

茅ヶ崎:龍前院

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龍前院 は、かつては 鶴嶺八幡宮 の僧坊で、現在は曹洞宗の寺院。 茅ヶ崎市最古の梵鐘 市文化財の五輪塔 市文化財の庚申塔 ・・・・・・・・・・・・・ 龍前院 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/ryuzenin.htm

がん封じの兄弟石・・・茅ヶ崎:鶴嶺八幡宮・神明大神宮

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茅ヶ崎市の 鶴嶺八幡宮 と 神明大神宮 には「がん封じ」の霊石が祀られています。 鶴嶺八幡宮の霊石 「がん封じ」の霊石は、自らの体の悪い所と霊石を交互にさすり「祓え給え清め給え」と念じることで難病を癒すといわれています。 神明大神宮の霊石 神明大神宮 の霊石は 鶴嶺八幡宮 の霊石を勧請したものだといいます。 両方の霊石に祈願することで病を癒す力が増すといわれています。 鶴嶺八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/turuminehatiman.htm 神明大神宮 https://www.yoritomo-japan.com/sinmei-daijingu.htm

源頼義創建の懐島八幡宮・・・茅ヶ崎:本社宮

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本社宮 は、1030年(長元6年)、 源頼義 が京都の 石清水八幡宮 を勧請して創建した懐島八幡宮をその始まりとしているといいます。 ※参考までに・・・鎌倉の 由比若宮 は、1063年(康平6年)に懐島八幡宮を勧請したのだそうです。 その後、頼義の子 義家 が隣郷に社殿を創建して遷宮。 それが現在の 鶴嶺八幡宮 で、その時より懐島八幡宮は本社宮と改称されたと伝えられています。 石清水八幡宮  (京都) 由比若宮 (鎌倉) 鶴嶺八幡宮 (茅ヶ崎) 壺井八幡宮 (羽曳野市) 壺井八幡宮 は、頼義や義家、そして、頼朝の属する河内源氏の本拠地だった地にある社(頼朝が河内を本拠としたことはないでしょうが・・・)。 壺井八幡宮は、1064年(康平7年)に源頼義が 石清水八幡宮 を勧請して創建されたそうです。 鎌倉や茅ヶ崎にまつわる伝承によれば、懐島八幡宮や由比若宮は、河内源氏本拠地の壺井八幡宮より先に石清水八幡宮を勧請して創建されたということになるのでしょう・・・。 ・・・・・・・・・・・・・ 本社宮

源氏の氏神社~茅ヶ崎:鶴嶺八幡宮~

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鶴嶺八幡宮 は、1030年(長元3年)、 源頼義 が懐島郷に京都の 石清水八幡宮 を勧請して懐島八幡宮を創建したことに始まります。 その後、頼義の子 義家 は、後三年の役の際に懐嶋八幡宮に祈願して勝利を収めたので、1089年(寛治3年)、隣郷の浜之郷に社領を寄進して 鶴嶺八幡宮 を創建します。 ※頼義創建の懐嶋八幡宮は、義家の遷宮によって本社宮と呼ばれるようになります。 御神木の槇 社殿横の槇は 義家 が鶴嶺八幡宮を現在地に遷座した時に植えられたものと伝えられています。 厄割石 鶴嶺稲荷神社 鉾宮神社 淡島神社 針塚 宮鐘 鎌倉時代に入ると 源頼朝 の命により 大庭御厨 (懐嶋郷)の 大庭景能 が社殿を修復して再興。 鶴嶺八幡宮 は源氏が関東に進出して初めて氏神として祀った神社です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~参道~ 大鳥居 松並木 鶴嶺八幡宮の参道は800m近い長さです。 明恵上人の碑 朝恵は天正年間に鶴嶺八幡宮を再興させました僧。 参道の松は朝恵が植えたもの。 授かり石 太鼓橋 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鶴嶺八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/turuminehatiman.htm

源頼朝と丹後局の伝説・・・茅ヶ崎:懐嶋山の碑

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懐嶋山の碑 懐嶋山の碑 は、 源頼朝 と丹後局との間に生まれたという島津忠久の胎盤が埋められたという場所に建てられています。 「えな塚」(胞衣塚)と呼ばれてきました。 ※島津忠久は薩摩国を本拠地とした島津氏の祖。 伝説によると・・・ 丹後局が頼朝の子を身籠ったことを 北条政子 に知られてしまいます。 頼朝は比企能員に命じて丹後局を 大庭景能邸 に預けました。 その後、頼朝が建てた桜屋敷に移って男子を出産。 三郎と名付けられたそうです。 7歳になった三郎は1185年(文治元年)6月15日、鶴岡八幡宮で頼朝と対面。そのとき「忠久」と名乗ったのだといいます。 妙運寺 一説によると、現在妙運寺が建てられている辺りに桜屋敷があったのだとか・・・。 源頼朝墓 鎌倉の 源頼朝墓 は、江戸時代に島津忠久の子孫・重豪が建てたものと伝えられています。 重豪は、反感を抱いていた徳川幕府に対し、頼朝の墓を建てることで、その「家柄」を示したともいわれています。 頼朝墓の東の山裾には、重豪が頼朝墓とともに整備した 島津忠久の墓 があります。 こういった話の展開からすると、島津忠久は頼朝の子とも思えますが・・・ 1185年(文治元年)に7歳ということは、丹後局が出産したのは頼朝が挙兵する前の出来事ということになります。 まだ頼朝が伊豆国に配流の身だった1179年(治承3年)頃の出来事ということなのでしょう。 『吾妻鏡』には、1182年(養和2年)3月9日、 北条政子 が懐妊したとき、丹後局が着帯の儀の手伝いをしたことが記録されています。 頼朝の子を身籠り、大庭景能邸に預けられ、頼朝が建てた桜屋敷で出産した丹後局に着帯の手伝いさせるなどあり得ないことなのかもしれません。 頼朝と丹後局の伝説は、厚木市の 小町神社 や大阪の 住吉大社 などにも残されています。 丹後局は、頼朝の乳母で伊豆に流された頼朝を支援してきた比企尼の娘。 惟宗広言と結婚して忠久を出産したという説が有力のようです。 その後、広信と離婚し、頼朝の側近・安達盛長の妻となったのだということです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆