1180年(治承4年)12月12日、 源頼朝 の新亭には、侍所別当に任命された 和田義盛 をはじめとする御家人311人が出仕。 頼朝 は「鎌倉の主」に推戴されました。 東国の主君となった 頼朝 は「鎌倉殿」と呼ばれるようになります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「鎌倉殿」 頼朝 の務めは、 一、戦功をあげた者の所領を安堵すること。 一、戦功に応じた恩賞を与えること。 です。 富士川の戦い 後には大々的な論功行賞が行われたと『吾妻鏡』は伝えています。 未だ罪人の 頼朝 が本来このような事ができるはずもないのですが・・・。 朝廷に代わる支配者であることを大々的に宣言したのでしょう。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~御家人~ 御家人というのは、武士に従う従者=家人に「御」の字を付けたものです。 つまり、 頼朝 に従う家人を頼朝への敬意から「御」の字を付けて「御家人」と呼ぶようになりました。 鎌倉殿の御家人になるということは、鎌倉殿への「忠誠と奉公」が要求されます。 一方、鎌倉殿は「所領安堵」と「新恩の支給」を義務としています。 鎌倉の新政権はこのような 御恩と奉公の主従関係 によって成り立っていました。 東国の武士が鎌倉殿 頼朝 に期待したのは、朝廷の下での侍大将ではなく、所領を安堵してくれて、争いが起こった場合には、公正な裁判を行ってくれる指導者だったということです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~侍所の設置~ 鎌倉殿と御家人の主従の関係は一応出来上がっても、全ての御家人を統制する機関が必要となります。 そのため、新政権にいち早く設置されたのが 侍所 です。 侍所の別当(長官)には 和田義盛 が任命されました(1180年(治承4年)11月17日)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~支配者頼朝と年号~ 頼朝 の 挙兵 から約1年後、1181年(治承5年)7月、朝廷は年号を養和と改めました。 さらに翌年には寿永と改められています。 しかし、 頼朝 は、養和・寿永の年号を使用せず治承の年号を使用し続けました。 これは朝廷の支配体制を認めないという強い意志表明です。 頼朝 が寿永の年号を用いたのは寿永2年からで、この年に何が行われたかというと、 後白河法皇 が頼朝に東海・東山両