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7月 18, 2021の投稿を表示しています

鎌倉権五郎景政がオリンピックの開会式に。

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東京オリンピック開会式で市川海老蔵さんが『暫』(しばらく)を披露しました。 『暫』(しばらく)は、歌舞伎の演目で歌舞伎十八番の一つ。 鎌倉権五郎景政 が悪人をこらしめるというもの。 写真は 浅草寺 の『暫』の像。 九代目團十郎が演じた 鎌倉権五郎景政 です。

源頼家の仮面の伝説と武田信光~伊豆の国市:信光寺~

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武田信光の墓 (伊豆の国市:信光寺) 『日本伝説叢書:伊豆の巻』によると・・・ 修禅寺 に幽閉された 源頼家 は、北条氏が密かに漆を入れた温湯に入浴し、全身が漆によって皮膚炎となり、容貌は特に醜いものになった。 北条氏は、事実を曲げて「たちの悪い病気」だとし、 北条政子 はその容貌を木に刻んで鎌倉へ持ってくるように命じた。 この使者となったのが 武田信光 だった。 事情を知らない信光は、頼家の仮面を持って出発したが、信光寺の近くまで来て頼家が殺されたことを聞いた。 そして、全てが北条氏の悪い計略だったことを知り、怒りのあまりに自殺してしまったのだという。 ただ、頼家が暗殺されたのは1204年(元久元年)7月18日で、信光が死去したのは1248年(宝治2年)12月5日のこと。 信光寺 (伊豆の国市) 信光寺 は、武田信光の創建と伝えられる寺。 光照寺 (伊豆の国市) 光照寺 には、信光が鎌倉へ運ぼうとしていたという面が残されている。 源頼家の墓 (修禅寺) 源頼家 は、1203年(建仁3年)の比企能員の変で失脚し、 修禅寺 に幽閉された後、翌年、暗殺された。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

大塔宮護良親王が殺害された日。

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護良親王 は、 後醍醐天皇 の皇子。 梶井門跡(現在の三千院)に入室し、天台座主( 比叡山延暦寺 の貫主)となって大塔宮と敬称されていました。 1331年(元弘元年)、 後醍醐天皇 が鎌倉幕府倒幕のための元弘の乱を起こすと、 護良親王 は還俗して倒幕運動に参戦。 足利高氏 (尊氏)、 新田義貞 の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡します。 しかし、 足利尊氏 と対立して、1334年(建武元年)11月15日、鎌倉に幽閉されてしまいました。 鎌倉宮の土牢 土牢に押し込められた 護良親王 は、妃の南の方以外の付き添いは許されなかったそうです。 鎌倉宮 には、護良親王が幽閉されていたという土牢が残されていますが、このような岩窟ではなく、土蔵造りの牢屋だったともいわれています。 護良親王 は、約9ヶ月間にわたって幽閉生活を送ります。 そして、1335年(建武2年)7月、 北条高時 の遺児時行が反乱を起こし、鎌倉を守っていた 足利直義 軍を破ります。 時行が護良親王を奉じることを恐れた 直義 は、7月23日、淵辺義博に命じて護良親王を殺害しました。 護良親王の墓 親王の首は 理智光寺 の僧によって葬られたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~妹の用堂尼は東慶寺へ~ 用堂尼の墓 東慶寺 五世の 用堂尼 は護良親王の妹。 親王の菩提を弔うために東慶寺に入山したのだといいます。 ~子の日叡は妙法寺を建立~ 護良親王の墓 (妙法寺) 妙法寺 開山の日叡は、護良親王と南の方の子。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大塔宮護良親王御遺跡の碑 (比叡山延暦寺) 大塔宮仰徳碑 (吉野山) 吉野山 では、村上義光が護良親王の身代わりとなって自害しています。

三嶋大社に代参した七人の頼朝の伝説

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源氏再興 を祈願して以来、 三嶋大社 を崇敬していた 源頼朝 は、毎年四度の祭礼に詣でることを誓っていたそうですが、鎌倉からは遠く、なかなか思いどおりにはいきませんでした。 そこで、安久村(現在の三島市中郷地区)の由緒正 しい百姓七人を選び、大祭に輪番で代参するよう命じました。 代参者は、頼朝を名乗ることが許され、征夷大将軍の装束と左折金帽子が与えられました。 その出で立ちは、鎌倉殿に少しも異ならなかったそうで、七人の頼朝は、毎年、輪番を違わずに社参したのだそうです。 三嶋大社 この代参の頼朝は、「よりとも」ではなく「らいちょう」と呼ばれていたそうです。 これは「在庁」(ざいちょう)を意味していたのだといいます。 そして、安久村から 間眠神社 横を通って 三嶋大社 へ向かう道は「在庁道」・「頼朝道」と呼ばれていました。 代参は明治の初めまで行われていたそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源義朝を供養した平康頼の墓~野間大坊~

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平康頼の墓 平康頼は、尾張国の目代だった頃、 平治の乱 で 平清盛 に敗れ、 尾張国野間 で 長田忠致 に暗殺された 源義朝 の 墓 を供養した人物。 その功績に応えた 源頼朝 は、1186年(文治2年)閏7月22日、康頼を阿波国麻植保(おえのほ)の保司(ほうし)に任じました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1190年(建久元年)10月25日、 頼朝 は上洛の途上、尾張国須佐ノ浦の御家人・須細治部大夫爲基の案内で 義朝の墓 を参拝します。 平康頼が赴任していた頃からだいぶ時が経っていることから、墓が荒れ果てていることを想像していた頼朝は、立派な堂が建てられ、供養されている光景に感激したのだといいます。 源義朝の墓 (愛知県美浜町・野間大坊) 野間大坊 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ